「頼られる」ということ


集団行動を行なううえで、リーダーという存在は欠かすことができない。

学校、旅行、仕事、遊び、試合。

集団行動は、纏め役の「リーダー」、そしてそれに従っていく「仲間」がいて、始めて成り立つものである。

そして、楽な「リーダー」というのは本当はない。

個性や権利が耳を塞ぎたくなるほど叫ばれている昨今、何処の誰が「黙ってオレに従っていればいい」などと言えるだろうか?

集まった仲間の意見と立場を常に考慮しながら、最善の道を拓き、そこに導く。

それが「リーダー」の仕事である。

楽な「リーダー」は、何もしないか、名前だけ飾った役職であろう。

そんなだから、「リーダー」はしばしば戦わなければならない。

立ちふさがる障害を壊し、降り掛かる困難を解決し、涌き出る課題を解いていかなければならない。

思い出しただけでも胸焼けがすることだってある。

前に進まねばならない、という脅迫観念と、背後につき刺さる羨望の眼差しに答えなければならない、それらを裏切ってはならない、という責任感が身を焼くのだ。

「リーダー」の苦境の理由の一つに、”同類がいない”というのが揚げられる。

孤独が「リーダー」の肩に降り立った時、責任感は質量を一息に増すのだ。

「リーダー」が楽観主義ならまだいい。というよりは、本来ならば楽観主義者が適役なのだ。

素直な笑顔は人の心を癒す。

安心感すら産む。

それが、私のような悲観主義者には、ないのだ。

ちょっとしたことで混乱に陥ったり、という事は冷静なおかげでないが、如何せん心配症なのである。

先頭に立つツアーコンダクターが道不安では、客はうろたえてしまう。

確たる確信にも似た自信がなければ、客人はついては来ないだろう。

私には、それもない。

なのに何故か、私は頼られることが多々在る。

何故か?

考えても答えは出ない。人の気持ちは伝えられぬ限りわからないものだ。

だからいつからか、私は考えることを止めて、期待に答えよう、それしか考えなくなった。

そうすると、自然と相手の顔色を覗うのがクセになってしまった。

「自分は答えられているだろうか?」

「相手は満足してくれているだろうか?」

この上なく臆病になってしまったと言える。

ふと考えるのは、「信用」されているのか「信頼」されているのか、ということだ。

前者は「利用されている」という捕え方だってできる。実際そう感じる事例の方が多い。

「信用」されている側としては胸くそ悪いことこの上ない。彼らは、変わりなんぞ幾らでもいる、と言いたそうな顔でこちらを見る。

悲しいけど、それはわかってしまうことなのだ。

むしろ後者な人は指折り数えるぐらいしかいないのではないだろうか。

だが。

考えて欲しい。

私の回りにいる、私を「信頼」してくれている人にしてみれば、それぞれの分野で「信頼」できるのは私だけでなのではないだろうか?

「このことについては貴方に頼るより他ない」

「貴方を1番信頼している」

意識過剰かも知れないが、そう捕えれば納得はいく。

それは、互いにとって、とても微笑ましいことではないか。

頼る、ということは、相手を信じることであり、頼られる、ということは、それに全力で答えることだと思う。

答える「べき」だと思う。

頼ってくれる人なんで一生のうちに数えるほどしかいない、しかし最早数の問題ではない。

頼ってくれる人がいるのであれば、彼らの為になにができるか考え、行動するより他はないのではないだろうか。


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