十一月

 麦まき。戦前はもとより、戦後の一時期までは、良くて米七分に麦三分、ひどいのは半々の麦飯が主食だった。何分にも一年間食べる大事な主食である。家族総出の作業で、二週間ほどで南向きの畑は全部麦畠になる。ほとんどが、石垣をつんで天までいたるような傾斜地の畑で、肥料は堆肥と人糞。それを肩や背中で運んでの作業の苦しさは、並大抵の業ではない。

 二度の蚕、植林、こんにゃく、大小麦、草刈りが五指の大仕事で、労働の厳しさはいずれも甲乙はつけがたい。

 十一月の中旬、紅く山を染めた木の葉もすっかり落ちて空気も乾燥し、冷たい木枯らしが吹き出すと、掘った「こんにやく」玉を洗って、「せん」という道具で薄く切って、長さ一メートルほどの細い篠竹(しのだけ)の串にさして、それを二十本ぐらいづつ二本の紐で結わえて連に編み、軒下へ吊して天日乾燥をする。

 麦蒔きのうちは夜なべだけだが、麦蒔きが終われば日中を通して行う。日も短くなるし朝夕は寒くなる。連にした「こんにやく」が凍らないように夜は家の中に入れて朝は出す。十二月に変わるころには、「こんにゃく」は乾燥して荒粉になる。後は一年間、相場を見て換金するだけだ。

 この、「こんにゃく」相場というのが変動が激しく厄介だ。つくって半作、売って半作といわれ一筋縄にはゆかない。栽培も難しいが売るのも難しい。これを扱う商人も、濡れ手に泡のぼろ儲けもあれば、ときには、身代をつぶすこともある。

              稲荷祭り

 中旬以後、よい日を選んで、屋敷稲荷の祭りをする。宵祭りで、御神酒を捧げ、炊いた赤飯と、お頭つきの肴(いわし)、油揚げ一枚を半紙に載せて供える。供えて帰る際、振り向いてはならない。