十二月

 十三夜の月見は、多忙すぎて楽しむ余裕はない。十日夜(とおかんや)は大体十一月の末から十二月の始めになる。その日を最後に大根を採って畑の仕事を終える。

 月始めに集落総出で、山道の修復作業が一日がかりで行なわれる。

 刈った草も乾燥して軽くなる。遠い草場から山道を背負って畑へ運ぶ。またどの家も薪が底をつくので、それを集めに山に入る。

 集落全体がほとんど同規模の農家なので、山から畑、畑から山へと仕事場が一緒に移るのも面白い。しかし、それも昭和三十年頃までであった。

 秋祭りの後からの草刈りに始まって、休む間もなく続いた多忙な三ヶ月余の惰性からだろう、暮れの晦日まで雨や雪でも降らないかぎり、地下足袋やわらじを履かない日はない。正月を控えて何となく気ぜわしい毎日の連続であった。

              恵比寿講

 旧暦と新暦と家々によってまちまちだが、父が商売をした関係からか、一年の締めくくりの意味からであろう、わが家では旧暦におこなった。

 正月に資本を持って働きに出た恵比寿大黒様が帰る日である。机に恵比寿、大黒を飾り、御神酒、山盛りの小豆飯とおひらきに汁、それに頭つきの魚を供えて、感謝の意を表す。  

              冬至

 秋に採れた南瓜をこの日のために残しておいて食べる。そして柚(ゆず)湯に入る。風邪をひかないとか、中風にかからないとか言われた。

               二十七日

 松の年とり。朝づくりに(暦に明示されている)「あきの方(かた)」の山に入り、一月の山入り同様、一年間に不幸のあった家の所有地のは避けて、玄関から家の方々へ飾る松の枝を背負い子一杯きった。「わらび」や「ぬるで」のように取ってもとがめなかったし、むしろきられれば縁起が良いと大目に見ていた。

 戦後は門松も年々派手になり、他人の山の若木の芯のある主枝を根元からきる者が横行した。木材価格が高騰し松も植えるようになったが、それすらきられた。

 あまりのひどさに、ついに門松の廃止運動が起こり、村役場で玄関と神棚用に、松の図を印刷したものを、各戸に配布して代用するようにすすめた。その結果松の年とりの行事は絶えた。

            三十日

 朝は早い。四時ごろから餅をつく杵の音が家々から景気良く響く。

 「せいろう」でむした餅米を、台所へすえた臼で男衆がつく。男が一人の家もあるし、二人の家もある。一人づきとか二人づきとか、それぞれに杵の音のテンポが違う。幼児は杵の音に目を覚ます。大きい子供は北風の吹く寒い暗闇の戸外で小守りをさせられる。遅い朝食までには四臼か五臼の餅をつきあげる。

 食後も、餅をつく合間に、神棚の前に正月棚をつくる。つづいて門松を立て、家の中の所々へ松の枝と注連縄(しめなわ)を飾る。さらに方々にある山の神や道祖神、石宮、石仏、墓地へ簡単な「しめなわ」を配る。

 餅がある程度堅くなったところで、正月棚へ丸めた餅を、大小二つづつ重ねて十二供える。

            三十一日

 大晦日。お年とりと言った。松のお年とりとこの日の夕食は、米のご飯に鮭の切り身を酒粕で煮たのを食べるのが家例だった。

 呉服屋、魚屋、下駄屋、菓子屋と行商が連日おとずれる。それでも足りず、主は、磐戸市(いわどいち)、下仁田市、と連日買い物に出かける。日暮れの早いこの時期、市で買った荷物を背負って帰るのを、家々から提灯を持って迎えに出る。昭和十年ごろまでの話である。

 元旦の朝湯があるので風呂はない。年越しそばを食べて床に就く。