六月

 茶作りが一段落をするころには、南向きの段々畑の麦が黄に色づく。そのころには蚕も四眠から起きて、朝夕は桑とり(採取)もする。日中は麦刈りに追われる。梅雨前の炎天は猛烈に暑い。

 どこの家でも総出で、時にはあちらこからのどかな歌声も聞こえる。大麦は畑に「はぜ」と言う櫓(やぐら)を組んで一束づつたばね、丸く四、五メートルくらいの高さにつみ重ねて乾燥する。段々畑の斜面にたつ麦はぜは、傾斜地独特のもので、方々に立つ姿は一種の風物詩であった。

 大麦が刈り終わるころには蚕が最盛期になる。大桑といって蚕が巣ごもりをする前で、餌になる桑の量が極端に多くなる。給桑する者は、上族する(繭を作る「はぜ」に移す)までかかりきっりになる。また桑を採り入れる者は朝から日暮れまで、それに追われる。遠い山畑から、日に何度も山道を二十貫(約六十キロ)もの桑を背負って運ぶ。

 四眠から起きて十二三日、十分に桑を食べたところで熟蚕となって上族する。 養蚕農家はほとんど二階建てで大きい。その家の中は上族をした蚕のまぶしの棚に占領されて、人間のいる部屋がない。せまい一部屋だけで食事もすれば寝もする。まさに蚕さまさまの生活である。

 月の十日ごろから梅雨入り。杉苗植えの適期でもある。仕事の合間をみて、苗を背負って山へ行く。

 蚕が繭になるころは、小麦が熟す。小麦の刈ったのは雨に濡らすと発芽をしてしまうので大麦同様たばねて屋根下に吊るす。軒下は、わずかな明かりとりを残すだけなので、家の中は日中でも暗い。

 繭の出荷を終え、杉苗植えもすみ、梅雨も明けると大小麦の脱穀である。大麦は川に近い道端で、家族全員が輪になって、一束づつ持って麦の穂首に火をつけて焼き落とし、残りの殻は川へ捨てる。天気の良い日、どの家でも一斉に行うので、道路は通行止め状態になるが、そこはお互い様、皆遠慮して通る。

 焼き落とした穂は、庭に「ねこ」を敷いて大きな棒で叩いて粒にして、唐箕(とうみの)にかけて選別する。それから干して完了。小麦は麦打ち台に叩きつけて穂から落として干す。昭和三十年前後から、モーターや発動機の脱穀機が普及して作業は非常に楽になったが、いずれもすごい「ほこり」を被るのは変わらない。そのほこりで体がかゆい。麦の栽培から離れて四十年。アレルギー体質で皮膚の弱い私は、思いだしても体がかゆくなる。

 三月の末に植えたジャガイモも掘る。主食同様のジャガイモは量も多い。十四、五貫(四十五キロ)も入る「かご」で、日に何度も家へ背負いこむ。これも四、五日はかかる。穫れたての新ジャガはうまい。粗食でしかも労働のはげしい時代、三度の食卓に山盛りでも飽きなかった。

 蚕と麦に追われ、雑草が成長するこの二ヶ月、畑には全く手が入らない。休む間もなく畑の草とりである。そして大小豆も蒔(ま)く。

 五月から始まって、六月、七月と目の回るほど忙しい毎日である。たまに来る行商の魚と、家で飼う鶏の卵がわずかな栄養源だ。皆、体重を減らして目がくぼみ、「あご」がこける。

 猫の手を借りたいこの季節、小学校も四年生以上は、蚕の最盛期の二週間は農繁休暇になった。