七月
機械製糸
繭が出荷になると、きかい(機械製糸工場)が始まる。
「きかい」は、大久保との分岐点に近い小塩沢の入口にあった。平屋だが、この辺では人の目を引く大きな建物である。中には糸を繰る機械が整然と並び、一台に一人づつ工女がつく。それぞれの台にある器の、沸騰した湯に浮かぶ繭から糸をほぐして紡ぐ。そこへ男の子が手押し車に積んだ繭を配る。それを配繭小僧と呼んだ。
きかいとは別に、少し下った分岐点の橋のたもとに、揚場(あげば)があった。そこの建物も大きいが、工女は少ない。紡いだ糸を一束づつ枠に巻いて束ねる。これで生糸という商品が完成する。
工場の手前に大きなボイラーの建物があって、釜番が、常時湯を沸かしていた。その蒸気で、朝の五時と正午と夕方の五時に汽笛を鳴らした。機械製糸工場が「きかい」で、この汽笛を単純に 「ホー」と言った。細いパイプから勢い良く噴き出す蒸気がホーと鋭く鳴る。
その音は、二つの山合いの隅々まで響いた。朝の五時、その音で一斉に起こされる。正午の「ホー」は、山奥で炭を焼く人にも、段々畑で汗を流す人にも、また家事をする人々にも昼をしらせた。午後五時の「ホー」は日暮れを告げた。
水もぬるむ七月、川は子供の遊び場になる。棒の先に、細い糸に「うなぎ」の釣り針を結わえミミズを餌に、川中の石の穴や流れに一晩置く。「して針」といって男の子たちの夏の最も楽しい遊びである。
男の子が三々五々、夕刻、川に「うなぎ針」をしかける。翌朝ホーの音でとび起き、誘いあって川へ行く。して針りを回収し終わって川からあがるころ、白いエプロンの嫁さんや姉さんたちが弁当を持って、下駄の音をカラコンさせながら連れだって工場へ向かう。そして子供に合う人、合う人が声を揃えて
「おーい、(うなぎ)とったかや」
と声をかける。捕れた時は見せびらかすが、反面、捕れない時は隠れたいほど「ばつ」が悪いい。からかわれたような気分で、口惜しくてならない。
仕事を終えて帰る工女を、物陰に隠れて
「きかい工女、鰻とったかや」
と声を揃えて悪態を言う。自分たちの言う言葉の意味なぞまったく分かっていないながら、朝のかたきうちをしたつもりで面白がった。
翌朝は
「おーい、鰻とったかや」
と早速おつりを取られる。夕方はまた悪たれる。それがいつか互いの挨拶言葉になって、やがては親近感に変わる。ほほえましい悪童のころの思い出である。
収穫した繭は製糸組合に出荷もすれば、糸繭商人に直接売ることもあるし、また余裕のある家は乾燥して年間の相場を見て売る方法もある。何分にも家計の主力商品で、その量は大変なものである。作って半作、売って半作と言われるほど相場の変動は激しい投機的な商品なので販売には神経を使う。
どの家でも個々または共同で乾燥倉という設備がある。乾燥した繭は薄い鉄板製の容器に保管して置く。大体、正常な家計のやりくりは、前年の収入で、今年、そして今年の収入で来年と一年送りにするのが鉄則とされている。
こあげ(農休み)
七月十九日、二十日は「こあげ」(農休み)である。どの家ても繭代金が入り主の懐は暖かい。
こあげ、が近づくと魚屋、呉服屋、下駄屋、菓子屋、小間物屋等行商人がひきもきらない。また、家主は家族のために、衣料などの買い物に町に出かける。
十九、二十日は、農家では最大の休日である。主婦は早起きで柏餅つくりで忙しい。男衆も朝づくりに家畜の餌や堆肥(たいひ)の材料の草刈りに行く。男衆が一仕事を終えて帰るころには、家では柏餅や「まんじゅう」が出来上がる。
柏餅と「まんじゅう」、鰹のなまりの煮魚、ちょっとおごった醤油汁の朝食。そこで主から小遣いが出る。一同が新調の衣服に着替えて、子供は小学校へ、若者は町へ映画見物や遊びにくり出す。
十九日に朝作りをするだけで、後の二日間は何もしないで休む。宗教的な行事が一切ないだけに心身ともにゆったり出来る。
しかし、これはあくまでも蚕の結果と、繭の価格が良くての話で、逆の場合は悲惨そのものである。一時しのぎの借金で首が回らなくなり、農地を手離したり、子供を前金で町に奉公にだしたり、また一家あげての夜逃げという極端の例もあった。
誰もが、過去は楽しく美しく蘇る。苦しくいやな思い出は忘れ勝ちになるが、これが、半世紀戦前までの、農村の現実の姿である。
一度目の畑の除草も終り、梅雨も明け、夏の土用のころは、杉や桧(ひのき)の下草刈りの適期である。炎天下、二メートル近い柄の鎌を振りまわすきつい作業だ。全身汗でびしょ濡れだ。ときどき蜂に顔や手の露出しているところをさされ、顔やまぶたがはれて物を見るのも不自由する。雷雨の時は鎌を捨てて逃げ帰ることもある。
雨の日は蜂の心配もないし、鎌も良く切れる。蓑、桧笠をつけたまま、持参の弁当を木の下で立ったまま済ます。
堆肥(たいひ)と人糞だけが肥料だつたが、戦後は、化学肥料の普及で生産量は飛躍的に向上した。しかし、その反面病害が発生蔓延した。蚕と並ぶ主要作物におどり出たこんにゃくの病気を防ぐ消毒という仕事が増えた。二十リットルは入る噴霧器を背に、水溶液の薬剤散布である。朝露の切れるのを待って、日中の作業である。
お行(おぎょう)
お行は、七月二十八日。ここ、小塩沢だけに古くから伝わる行事だが記録は無い。
菩提寺の宝性寺は無住で、集落の集会施設として使われていた。お行は毎年その寺で行なわれた。寺の近くに石尊山という岩山があって、石の「ほこら」が幾つかある。
昔のことはまったく分からないが、私の知るかぎりでは若者の、独身者だけの行事であった。各々が、朝づくりを終えて午前八時ころ、米を一升ずつ持って朝食抜きで集まる。
この日は二食で、いかなることがあっても、一口たりとも家の物は食べてはならない。持ち寄った米を、一人、二合づつ炊いた醤油飯だけで、おかずや汁ぬきの朝食をとる。
朝食をすますと四五人で集落を回って一戸、二、三十銭くらいづつ寄付を募る。この寄付を「つらぬき」と言う。その金で別の者たちが町へ買い物に行く。
使い走りをするのは若い新参者の役割で、古参者は将棋を打ったり、寝そべって世間話に花をさかせたりして過ごす。
障子紙、味噌、砂糖、酒等が届くと、やおら古参の出番で、障子紙で大人の背丈もある、「ごへいそく」をつくる。それを立てる竹も切る。二度目の食事用のごへい餅の準備もする。ご飯を炊き、庭へ一俵(十五キロ)の炭をおこし、餅をからませる屋根板の先を、地面につきさすように片方の先をけずる、それにつける味噌垂れをつくる、すべてが手分けだ。
時間を見計らって数人が、「ごへいそく」と竹、御神酒等を持って、ほら貝を吹きながら石尊山へ登り、竹の先に「ごへいそく」を吊して立る。石宮へ御神酒を上げて、各自が手を合わせて五穀豊穣と家内安全を祈願する。
一、五メートルほどの真っ白の「ごへいそく」は、ふもとの集落を見おろすかのように緑の中に浮かぶ。この「ごへいそく」が早く雨に濡れて落ちるほど豊作だという。つまり梅雨明け十日といってこの頃は往々にして日照りに苦しむ。雨ごいの意味もあったのであろう。
石尊山のお勤めが済んで帰る頃には、庭の炭も真っ赤におこり、その回りをぐるっと囲んで立つ屋根板の餅が、こんがりと焼けて香ばしく匂う。
ごへい餅は、煮えたご飯を石臼で練るだけでつくことはしない。それを屋根板の先端に、大人の拳大(こぶしだい)に練り付けて、味噌垂れを塗って、地面に立てる。
ごへい餅は、どういうわけか神棚の祭ってある家ではつくることは禁じられていた。山の炭焼き小屋等でつくられていたようだ。
一日二食、ほら貝を吹きながら石尊山へ登って祈祷をし、寺の境内でごへい餅を食べる。
神仏混合の時代に、寺の住職が天台宗の回峰行や断食行をまねて勧めた行(ぎよう)だろうと思う。夏の土用のこの時期、心身を鍛え、疫病から身を守り蔓延を防ぐため、神仏の加護を祈る信仰心に根ざした行事で、もちろん、川で身を浄める「みそぎ」もしたと思う。
しかし、今はそれらの精神はすべて捨てられ、石尊さんへ「ごへいそく」を立てて飲食をする宴会になってしまった。
幕末の時代、菩提寺の宝性寺に臥雲という天台僧がいて、寺小屋を開いて檀家の子弟に学問を教えていた。嘉永三年生まれの祖父もその一員で、商売往来とか国づくしという教本や、祖父の名で書かれた手本が残っている。また庚申塔、二十三夜塔、三界満霊塔等石に刻まれたものが、集落の道端や鎮守様の境内に幾つも残っている。それらに書かれた文字は、あまりにも見事で、こんな草深い、小さな寺の住職がと驚くばかりである。
往時の文化にふれる時、レベルの高さには感心させられることが非常に多い。
雨ごい
梅雨明け十日という言葉がある。年によって梅雨明けはまちまちだが、日照りがつづくことが多い。長梅雨でひ弱く育つた作物は、真夏の太陽に照らされ、おまけに雨が十日以上も降らなければ、息絶え絶えに枯死寸前に干上がってしまう。
集落ごとに雨ごいをする。小塩沢は全員が黒滝山へ行く。不動寺の本堂の裏手の滝下で輪になって、「ごへいそく」を持った音頭とりが
「雨とんべえいわおうぞ」
と唱える。つづいて一同が
「雨とんべいわおうぞ」
と同じ言葉をくり返す。音頭とりが
「これほどひでり知らねえか」
一同
「雨とんべいわおうぞ」
音頭とり
「雨が三つぶ降ったなら」
一同
「雨とんべいわおうぞ」
音頭とり
「酒が百にとっぴんしゃん」
一同
「雨とんべいわおうぞ」
音頭とり
「上野一の一宮」
一同
「雨とんべいわおうぞ」
と、繰り返し唱えながら踊り歩く。
踊りあきたところで、滝壷の石碑を年行事が四人かかりで、
「雨を降らせたら立ててやる」
と言いながら倒す。
それから若者が、不動寺の南に連なる五老峯の観音岩へお詣りに登る。途中馬の背という立ちくらむような絶壁を通り、三つの鉄梯子をよじ登って尾根に出る。雑木林の尾根道は真夏の灼けきった下界を忘れるほどの涼気である。木立の中では聞きなれない蝉の声がにぎやかだが、これは長野県に多くいるそうだ。観音岩は、尾根道の真ん中あたりにある。岩あたまに観音の石像が立ち、岩の周囲のいたる所に大小の石仏や石宮がある。それらの神仏に、全員で雨ごいの祈願をして、そこから一直線の道を降る。
だいたいここまですればご利益もあるはずだが、それでも降らなければ、菩提寺の本堂で輪になって座り、大数珠を回しながら念仏を唱える。昼食に家に帰るが一日がかりで行う。
これでもご利益がなければ、いよいよ、各区の年行事が揃って、高原の鹿岳山のお宮へお水借りに行く。「天とう、人を殺さず」と言う言葉がある。たいがいこれで雨は降るが、今度は、ご利益がありすぎて雨の日が続くこともある。
先に倒した黒滝山の滝壷の石碑を立てに行く。そして鹿岳山のお宮へもお水を返しに行かなくてはならない。