九月

                秋祭り

 三番目の草取りも終えてほっと一息、朝夕の気温もめっきり冷えて、すすきの穂も出そろう九月中旬、秋祭りである。

 十四日、集落では、一戸一名づつ出て、夏の雨でいたんだ道路の修復や清掃をかねて、道端の三ヶ所に秋祭りの幟(のぼり)を立てる。産土様(うぶすなさま)へ「しめなわ」を張り清掃をすれば、作業は終わる。

 高さ二メートルほどの台石に、長さ二十メートルはあろうか、杉丸太の柱に大きな字が書かれた、長さ十七、八メートル、幅一メートルほどの布の旗の端にある輪を縦に通す。柱の先にロープを三本結わえ、それを大勢で引張って立て、三本のロープを張って固定する。「のぼり」が秋風にヒタヒタと音を立てると、祭りの気分に心がはずむ。

 午後は、それぞれの氏神へ、「しめなわ」を張って行燈を供え掃除をする。ご神体の名を書いた「のぼり」も立つ。また、家々にも御祭礼と書かれた行灯や提灯も飾る。

 七月の「こあげ」ほどの派手さはないが、初秋蚕の収穫、二百十日の無事、秋の稔りを、八百万の神(やおよろずのかみ)に感謝を捧げる祭りである。

 日が落ちるころは、宵祭りで家々の「あんどん」や「ちょうちん」に火が灯る。早めの夕食で若者はおもいおもいに遊びに出かける。

                十五日

 鎮守様の祭りである。集落全戸が氏子で、午前十時ごろ瀬戸焼きの三重ねの器や重箱にめいめいが肴(きゅうりもみや野菜の煮しめ等)を持参で集まる。

 鎮守様の本殿は社殿の中にある。社殿は広く氏子が輪になって座れる。

 一同神前に神妙に正座する中、まず、神官が「おはらい」をして浄め、鎮守様の十二社大権現と、八百万の神に対し五穀豊穣を感謝し、氏子の家内安全を祈願の「のりと」を奏上する。全員の玉串奉納が終わって儀式はお開きになる。

 あとは、車座になって持参の肴をひろげて酒宴となる。娯楽等の少なく生活の苦しい時代で、たまにのふるまい酒で悪酔い、喧嘩口論はつきものだ。

 集落を上、下二つに分けて、二人づつ計四人が二年交代で、集落の年中行事のすべてを司る。これを年行司といってすべての権限と全責任をまかされる。

 喧嘩口論は余興で、これがあることは十分に酒が入った証拠で、年行司の面目は立つ。

                十六日

 集落の中に、神明宮(しんめいぐうの祭神は天照皇大神宮)を氏神とする九戸のマケがある。その起源は遠く鎌倉時代に遡ることは間違いない。鎌倉幕府が戦略上、上信地方までも勢力を広げて配置したか、或いは幕府滅亡で落人となったか、そのあたりについては、定かなことは分からない。

 九戸の中、最も旧い五戸の所有地に囲まれて社殿があり、その中に、神明様が奉つられている。

 十六日は、神明様の祭りである。同族の一同が集まって、鎮守様と同様に、神官により祭礼の儀式の後、酒宴が神前で開かれる。

 そのしきたりは古くからつづいていたが、大正頃から昭和の初期にかけて氏子の中に、手に負えない嫌われ者がいて、一人二人と氏子から抜けて、昭和十年頃には寄りつく者がなくなってしまった。あげくの果ては、社殿を囲む土地の境界をめぐって争いが起る始末で、ついに、社殿も朽ちて現在では石宮と石どうろうが昔の面影を残しているのみである。

              十七日

 山の神を奉る社が二つある。一つは神戸の姓のみと、もう一つは神明様を抜けた神戸と、白石、今井を名のる氏子で構成されている。「ほこら」はそれぞれ山の入口にある。

 十七日には氏子が集まって神事を行ったが、現在は旧暦の十七日に回り宿で神官は招かず酒宴のみが行われている。

 過疎化が進み、農業をする家もわずかとなり、近代化した現代、山村に住む者の意識も大きく変わり、それらの祭りも風前の灯火の状態で、いずれ消滅することは確かである。従来からのしきたりが捨てきれず、酒宴のみが引き継がれている感がしないでもない。

 月々の二十八日が、不動様の日であるように、月の十七日は山の神の日とされた。炭焼きが盛りのころ、それを業とする人たちは、山の神に「おさご」と御神酒を供え仕事を休んだ。今でも山仕事の人々や、土木作業に携わる人々は何かのかたちで祝いをする習わしがある。

                彼岸

 秋祭りがすめば彼岸である。日本という国は、神と仏が同居する国である。彼岸には先祖供養等の法要やら、墓参りで寺や墓地は人出でにぎあう。コスモスや百日紅の花が咲きほこり、春と同様に墓地は花で飾られ、線香の煙が絶えない。人々の心のなごむ一時である。

                十五夜

 中秋の名月、満月の十五夜は大体このころである。月の良く見える縁側へ机を出して、すすきをさした花瓶と月見団子やまんじゅう、季節の果物を一緒に供える。

 子供は大勢で、手ぬぐいで頬かむりをして顔を隠し、棒の先に針金や釘で作った鍵に供物を引っかけて盗んで歩く。供え物は早くなくなるほうが縁起が良いと喜ばれる。盗まれないのはまずいからだと苦情をいわれたり、また盗んだのを捨てた場合は馬鹿にしたと叱られたりする。これは戦前の話だが、何とも心豊かで平和な時代であった。