農業の今昔           

江戸時代より、せまい耕地で養蚕、こんにやく、和紙つくりと、広い山林で建築材と薪と炭で、当地方の農家は生計を立てていたようだ。いうならば農林業の複合経営であるが、ここでは農業を中心の記録とする。

 江戸時代の末ごろ(少なくとも二百年以前)に建てられたであろう家は大きな二階家で、典型的な養蚕つくりである。その他の穀物、そ菜類は自家用ていどであったと思う。

 長い鎖国から開国と時代はかわり、生糸は外貨獲得の花形商品で、養蚕が農業経営の柱になった。文化文政のころは養蚕の黄金期だったようすが、私の家に残る品々からうかがうことができる。こんにゃく、和紙づくりは副業というのが一般的だが、家々によってその比重は異なったかも知れない。ただし和紙つくりは明治中ごろまでだったようだ。

 田んぼのない当地で冬、陽のあたる南向きの傾斜地は、主食として重要な麦を栽培し、麦の収穫後は自然薯(じねんじょ)のこんにゃく畑にかわり、そのこんにゃくの日よけとして楮(こうぞ)は栽培されていた。

 昭和のはじめ、世界的な金融恐慌で、生糸価格は暴落、農家の生活は非常に苦しかった。更にあのいまわしい日中戦争、太平洋戦争へと突入したために、物資不足から、金より物へとインフレがすすみ、大小麦、穀穀、芋類等もっぱら、自給自足をモットーとする時代になった。戦争がはげしくなるにつれ、食料の増産が至上命令となったために、しだいに工芸作物のこんにゃくは軽視され、風土の適した南牧地方の、南向き斜面の日あたりのよい畑のごく一部で、自然薯として残っただけだった。換金作物として養蚕だけが唯一ほそぼそと営まれていた。

 戦後も、しばらくの間、農産物のすべてが統制経済下におかれた。こんにゃくのようなさほど重要でない作物は、統制のきびしい網の目をのがれて闇取引が横行した。しかも猛烈なインフレが進行、ないものねだりで値段は暴騰した。こんにゃく芋を乾燥して水車でついた白い粉は「白い金の粉」とまで言われた。

 荒粉(こんにゃく薯を乾燥させた物)は一貫目(三、七五キロ)四千円もした。昭和二十三年に師範学校を卒業して教職についた弟の、月給が四千円まではいかなかった。まだ一万円札はもちろん千円札が発行されるまえで、百円札が最も大きい紙幣のころである。売買単位が十貫(三七、五キロ)で四万円、百円紙幣で四百枚。商談が成立し金の受け渡しで、札をかぞえるのが大変だった。そんなわけで、税務署の目がきびしく税金対策にも苦労した。

 蜜柑とこんにやくは、もっとも金になる作物の双璧といわれ、全農民の羨望のまととなり、栽培熱がたかまった。やがて南牧谷の畑がこんにゃく一色になるころには、品種改良や農薬、農業器具の開発普及、栽培技術の進歩向上とあいまって、平坦地での栽培が容易になった。加えて外国産のこんにゃくが輸入され価格は暴落した。

 「金の粉」と、もてはやされたのもつかの間、十年そこそこだった。その後しばらくは繭と同様、価格は不安定な状態がつづいた。昭和三十年代の後半ころより、起死回生、野菜(キユウリ等)花卉、シイタケ栽培で市場出荷。またビタミン農業を先取りして果樹栽培も試みたが、農業の再生の起爆剤にはならなかった。おりから、国が高度成長経済政策をとったために、農業そのものが衰微の一途をたどった。

 草を刈った後の、きれいな採草地。四月ごろからは、無限といってもよいほどにわらびが自生した。わらびを扱う商人がいて、学校から帰ってからと日曜日には、子供の小づかいかせぎが出来た。また足に自信のある女性たちも、一時期ではあるが、生活の手段にもした。時代がおおらかで、わらびにかぎって他人の土地のものでも文句を言わなかった。その採草地も、見渡すかぎり、びっしりとこんにゃくの葉に覆われた畑も、すべて姿を消して今はない。わずか三十数年で、すっかり変貌して荒野となり、何世紀かの昔にもどってしまった。

 大正十二年に生まれ、「農は国の基なり」とされた時代に育ち、生きつづけて七十六年。後継者もいない今、耕して天に登るような農業は、人間本位のエゴ的な自然破壊だったのかもしれないと、都合よく解釈をして、己を慰さめる今日このごろである。        終わり