植林の話          

 少しづつ日脚が伸びて春近しともなれば、本来、浮き立つはずの気分が、杉の花粉のことで逆に滅入ってしまう。若い頃より植林に携わつてきただけにやりきれない。ただただ肩身の狭い思いで一杯である。

 太平洋戦争の直後、丸裸になった山へ治山治水、水源涵養林の造成とかのうたい文句で、国から苗木代をもらい、有り難いことと感謝しながら、自分達の老後のそなえ、また。子孫のため、ひいては世のため国のためと、懸命に植林をした。空襲でおびただしく焼失した家屋の復興と、その後の経済の発展で旺盛な住宅需要が目ざましく、木材の価格は高騰をつづけた。堅調な木材価格を、国からの助成金が拍車をかけるかたちで、植林熱をあおった。

 昭和二十四、五年頃「木を植えむ土地なき民の一人にて簡易保険も頼むべきかな」これは歌人の土屋文明の作だが、逓信省だったか郵政省かが簡易保険の宣伝用に、依頼して作らせたものであろう。この歌を印刷したポスターがいたるところに張られ人々の目をひいた。わずかな山林を持つ私などもこの歌を見て、少なからず優越感を抱いたものだ。

 農業にしろ、林業にしろそれで生計をたてるとなれば決して楽ではない。特に木を植えて育てる仕事はきつい。盆栽の木を育てる道楽とはわけがちがう。

 なかでも七月の土用中心に、二メートル近い柄の大鎌を使って、腰丈ほどにも伸びた下草刈り。照りつける真夏の太陽の下、吹き出す汗。ときには、蜂にも襲われる。万一顔でもさされればたちまち瞼が腫れて物を見るのにも不自由する。はげしい雷雨に見舞われて鎌を捨てて逃げることもある。雨の日は鎌の切れ味が良いので雨具を着て山へ行く。持参した弁当は木の下で立つたままで食べることも珍しいことではない。

 畑との仕事とのかねあいもあるが、この時期になると草が成長しきる。これ以前だとまだ草が伸びるので九月ころ、もう一度刈らなければならない。かといって、これより遅れると折角植えた苗が、茂つた草に負けて弱ってしまう。

 冬を迎える十一月の末ごろ、植林地の土が凍らないうちに、植えた苗が折れないように曲げて土に埋けなくてはならない。これは寒干害から守るのと、野兎の食害を防ぐためである。餌のない冬、野兎は青い杉苗の葉を好んで食べる。野兎の歯にかじられるとなぜか、苗の成長は止まつてしまうのである。

 杉苗の土埋けは、三年はどうしても行なわければならない。四年目ころになると苗の丈も伸びて、主枝を野兎にかじられる心配はなくなるし、また曲げることも出来なくなる。そうなると今度は、暖冬の年や多少でも日の当たる場所はよいが、まったく日の当たらない山は、雪がなく寒さが厳しい冬は、春、枯れた杉で山火事のように真っ赤になることもある。これを寒干害と言うが、こうなれば、また、一から植え直さなければならない。そして下草刈りは少なくても十年はつづく。

 国の高度成長経済が功を奏し、人件費の高騰、為替の円高、林産物の自由化等で木材価格が暴落、とうとう山の杉は売れなくなってしまった。昭和五十年ころからである。

 村のシンボルとして称えられ懸命に植えた杉の木も売れない今、井戸の底のようなせまい谷間の集落を覆ってしまった。そして春の一ケ月以上の間、杉の花粉に苦しむのである。この土地では保水力があり新緑、紅葉と変化があり景観的にも優れる雑木は放っておいても育つ。無計画な人間の欲に対する因果応報と、諦めの日々である。      終わり