南牧谷の風土

 群馬県の南西部、上信国境を源に東に向かって南牧川が曲流する。その川をはさんで幾重にも山並みが連なる。南牧川は多くの支流を集めて、下仁田で西牧川と合流し鏑川(かぶらかわ) となり、更に下って利根川となって太平洋にそそぐ。

 南牧川の本流と支流の川ぞいのせまい土地をけずって、石垣が積まれる。その上に、道をつくり,,家が建つ。山腹の斜面には石垣の段々畑が重なる。また、山腹のわづかな水を利用して生活をつづける集落もある。

 山深い南牧谷は隠里。それは、源平の時代までさかのぼるか、あるいはそれ以降からかは、わからない。集落には鎮守の社が祭られ、寺がある。さらに個々の氏神やほこらがある。山の神々に祈り、恵みに感謝しつつ、暮らしたであろう祖先の人々の姿が彷彿(ほうふつ)する。

 道端の道祖神、庚申塔、二十三夜塔、三界万霊塔等、また里を抱く山々には石像、石仏、石宮等数多くの神仏がある。それらが信仰を中心とした、往時の香り高い歴史文化を物語る。

 わずかに、東方がひらけるだけで、他の三方を千メートル前後の稜線にかこまれるこの谷の村には、南牧川ぞいの下仁田へ通じる幹線道路が一本だけ。他に三方の山並を越える峠道がある。

 南は多野郡の上野村より秩父へぬける桧沢峠と塩沢峠の二つ。西は長野県の臼田町や佐久町、佐久市へ通じる余地峠、大上峠、田口峠、矢沢峠、荒船山経由で内山峠と交わる星尾峠と数が多い。北には下仁田町の西牧へ越す木々岩峠等がある。その他稜線伝いの峠道もあれば、谷間の里から里を結ぶ峠道も無数にある。

 郡境、県境の峠道は交易圏を広める流通の要所としての重要な役割を果たしていた。多野郡と経済的流通路を持つ磐戸宿は栄え、三月と暮れには、市が立ってにぎわった。砥沢は、産出する砥石からの経済的の繁栄はもとより、信州から峠越えでくる米の市場が開かれた。

 峠道をはるばる、馬の背に揺られて輿入れをした花嫁が多かったと伝えられるが、馬子の祝い唄のこだまのひびきが偲ばれる。

 越後からのにしん売りばあさんや三味線引きのごぜ。越中富山の毒消し売り、越前からの鎌屋。正月の三河漫才、水あめを棒にくるんで売る峰助じいさん等、お国自慢の唄を披露したり、旅の土産話しに花を咲かせたり、いろいろな情報の伝達役でもあった。越後や美濃あたりから来た木挽き職人は、そのまま永住した者も多い。また信州高遠からの出稼ぎ石工は、神社や寺または道ばたに、石仏、観音像をはじめ五輪塔、宝塔、灯ろう、供養塔、道祖神など、かずかずの石造美術の文化遺産を残した。これらの人たちもすべて峠を越えてきた。

 里や山の道に限らず、峠道に馬頭観世音の多いのが目をひく。馬が荷物の運搬や交通に重要な役割を果たし、険しい道で命を落としたかを悲しく伝えている。

 境界を接する地方独特のなまりと方言がある。上野村からは秩父地方の、そして長野県からの信州弁と、南牧谷の住人の言葉にはニュアンスに微妙な差があり、また伝統的な生活文化にもちがいを感じる。

 南牧の総面積のほぼ九割りをしめる山林。杉、松等はごく一部で、ほとんどが落葉樹だった。芽ぶきの季節には空気までも新緑に染まり、暑い夏の夜は山野のみどりが風を冷やす。紅葉の秋は山も里も紅や黄にもえて、澄んだ空の青に美しくはえ、冬がれの野山は雪に覆われてしずかに眠る。

 その山林は、春から夏にかけてそれぞれの花を咲かせ、やがて秋のみのりは獣や鳥をはぐくむ。それら生物のさえづりやいななき、美しい姿が人々にうるおいを与え、また生活の糧にもなった

 南牧谷のほぼ中央を西東に縦貫する本流には、そ上した鮎の銀鱗がおどり、支流も豊富な水に恵まれて、本流と同様に、かじか、やまめ、はや、うなぎ等たくさんの魚が泳ぐ。水がぬるむ五月から秋口にかけて、せせらぎではかじか蛙があたかも打楽器のような声でさえずる。また初夏の宵闇を蛍の灯が妖しく乱舞する。

 夏の渓流は子どもはもちろん、大人にとつても遊び場である。ふんだんにいる魚をとったり、水泳ぎで喚声が絶えない。夕暮れには人も馬も一日の汗を川で洗い流す。

 渓流には牧歌的な水車が、水しぶきをとばしながらまわり、終日のどかなきねの音をひびかせる。水車は穀類を製粉精麦を目的の共同のものから、組合製糸の糸ひきや糸あげの加工用と、個人的なこんにゃくの製粉加工に利用するもの等である。南牧谷に散在する水車はかぞえきれないほどあった。

 人間は水によって生活をし、川に沿って住み、文化は川を伝わって進むというが、豊かな清流のほとりに住んだ祖先の生き様がまさにそれであろう。

 南牧川の渓谷、とくに上流には滝が多い。これは南牧谷の地形の落差から生じた現象だ。滝の涼気が夏の暑さを吹き飛ばしてくれるし、瀬を流れ、滝壷に浮かぶ落ち紅葉も深まる秋の風情を彩る。

 特筆したいのはこの南牧谷が、徳川幕府の直轄領であったことであろう。天領は、大名領の過酷な税率に比し四公六民と低かった。米が一粒もとれず、これといって特産物のないにもかかわらず、心豊かに暮らすことが出来たのは、それが起因しているのだと思う。また、地主対小作人という関係も少ない。貧富の差がなく、争議や悲劇的な伝説のないこの里は、ひっそりとした平和郷であったろう。 

 戦後半世紀、まっしぐらな高度成長経済のもと、世は自動車社会に変化、日本列島改造のかけ声のもと、大規模なスーパー林道が開発されたり、峠道の数本は自動車道に変わったが、ほとんどは林の中に埋没した。針葉樹を中心とした無計画に等しい植林政策の結果、新緑、紅葉の自然美を失い、山の動物の生態系も狂わせ、谷川の清流をも枯らしてしまった。

 家庭生活の目覚ましい向上と反比例、汚れた排水の大量なたれ流し。道路、えんてい等の工事の泥水、使用するセメントの灰汁。従来の有機質肥料から変わった化学肥料と高度な農薬の大量使用で、少なくなった渓流の水を汚染し、そこに棲息するたくさんの魚や蛍の姿が消えた。

 消えた蛍や魚が、ようやくここ数年見られるようになった。蛍は昨年、何ヶ所かで大量に発生した。しかし、それは川の上流域の一部に限ってである。多分、化学肥料や農薬により絶滅した蛍の餌になる(かわにな)が、その後農地が荒廃し、それらの使用がなくなった結果繁殖したのであろう。

 残念ながら、せせらぎの石の上で天日干しをしながら、さえずり合うかじか蛙のあの透きとうるような大合唱はまだ聞こえない。  

 何時の世にも人間社会には行き過ぎがある。行き着くまでブレーキは踏まない。歴史にまつまでもなく、私の生きた四分の三世紀においても、大正の黄金期の後の、昭和初期の金融恐慌。三百万もの尊い人命を奪った満州事変からの十五年戦争。昭和から平成にかけての バブルにはしゃぎ、それからの無惨な金融危機等すべてが走りだしたら、とどまることを知らない惰性の結果である。

 齢八十歳、神秘的ですらあった山川草木の、かつての姿を懐かしむことしきりである。                                    

                                       終わり