観兵式

              
  はじめに       平成十四年一月八日

 

 昭和二十年一月八日、天皇直属の近衛騎兵連隊(儀状隊)の一兵士として、陸軍最後の観兵式に参列した。帝国陸軍の華とうたわれた若き日の栄光。あれから半世紀余り、思いかえすと昔のことは夢のまた夢であるが、一つの歴史として記録しておきたいと思う。

 昭和九年十一月、北関東で陸軍の特別大演習が行われた。その折、天皇陛下がお召列車で富岡町(現在の富岡市)まで行幸をなされ、中学校の(現在の富岡高校)校庭で拝謁することになった。御親閲といい、小学校の児童も私の学年の五年生以上が参加を許された。

 

 小学校が五、六年、高等科が一、二年で、男女合わせて四百人ほどが、握り飯を包んだ風呂敷を背負い、校長先生をはじめ先生の引率で、午前三時に小学校を徒歩で出発した。真っ暗闇の道中十八キロを、満天の星あかりをたよりに、一際光る流星を一つ二つと数え合いながらの行進だった。会場に着いたころには夜も明けて、やわらかい初冬の陽がさしていた。

 

天皇陛下のお姿を一目拝もうと、二十近い小学校生徒、各種団体の人たちが、近郷近在からぞくぞくと集まって来て、広い校庭を埋めつくした。人力車で駆けつける老人も多い。会場では、私語は堅く禁じられた。そのうえ、憲兵や警察官がところどころで目を光らせているので、あたりは緊張した雰囲気に包まれていた。

 

 午前九時をかなりまわったころ、天皇陛下はご到着した。「最敬礼!」の号令で全員が頭を深くたれているので、お姿を拝むことは出来ない。「直れ!」の号令で顔をあげると、はるか離れた玉座に、軍服姿の天皇陛下が敬礼をして立っておられた。

 

朝日をまともに受けた天皇陛下のお胸の大勲位勲章が、目も眩むばかりに燦然と輝き、神々しさを一層増している。参列した誰もが、日本人に生まれた喜びをかみしめた瞬間である。

 

 昭和二十年一月七日。代々木の練兵場で、近衛師団による陸軍始めとして挙行される観兵式の予行演習が行われることになった。

 

連隊長の指揮で乗馬行進するのは始めてである。二列縦隊で、裏門から明治通りを西に向かう。右手で持つ槍の先についた紅白の旗をなびかせる乗馬の一ヶ連隊の隊列は延々とつづく。新宿市街に入ると闊歩する馬の蹄の音が、建ち並ぶビルにこだまして響く。

 

到着してみると、練兵場にはほとんどの部隊が終結、整列していた。中には将校の指揮で「抜刀隊」の歌を合唱して気勢をあげている歩兵連隊もある。万を越すであろう将兵のすべてが徒歩である。その中へ我々騎兵だけが乗馬で乗り込む。兵営生活一年足らずの私たちが、これほどの優越感を覚えたのは始めてである。馬の世話の苦労も吹きとんでしまうほどの感動である。

 

馬上から見渡す人波は、さしも広い代々木の原野を埋めつくしている。万以上であろう銃の先につけた剣が光を放ち、我々騎兵が持つ紅白の三角旗が風にはためく。遥か西方の澄んだ空にくっきりと霊峰富士が浮かぶ。自分自身がこの中にいることも、また厳しい戦局のことも忘れる、まさに一大絵巻である。

 

赤柴八重蔵師団長以下幕僚が乗馬での閲兵である。肩から胸の参謀肩章姿でまたがった人馬の華麗さに息を呑む。

 

かなりの時間をかけて閲兵が終ると、軍楽隊の奏でる勇壮な「抜刀隊」の曲に合わせて、大地を蹴る軍靴の音高く、歩兵の堂々の分列行進が始まる。一万人以上であろう歩兵四ヶ連隊につづいて、大砲を積載した車を何頭もの馬に牽かせた大部隊が轟音を響かせ、砂塵を巻き上げる。

 

殿(しんがり)が騎兵である。連隊長が高く掲げた白刃一閃、「前へ進め!」で行進がはじまる。ややして「速足!進め!」、つづいて「駆け足!進め!」すべて号令だが、馬がその号令を聞き分けるかのようだ。槍を右手で持ち、左手だけの手綱さばきだが、まさに人馬一体の一糸乱れぬ行進である。騎馬の六百は大集団である。その紅白の旗は一際鮮やかである。

 

八日、観兵式は宮城前である。大内山を覆う松の緑の中に、皇居内にある石垣上の建物の白壁が朝日に映える。お堀の水は青く澄んで二重橋の影が浮かぶ。広場は国防一色で兵が持つ剣がきらめき、騎兵の紅白の旗が風にはためく。昨日の勇壮という気分とはうってかわり、張りつめた雰囲気が辺りを包む。自ずと身がひきしまってくる。

 

馬上から一部始終が見渡せる。閲兵は、歩兵連隊が並ぶはるか右端から始まった。近衛騎兵曹長が持つ天皇旗を先頭に、白馬にまたがった天皇陛下をはじめ、各宮様方、および高級幕僚の乗馬の行列である。

 

「頭−右!」連隊長の号令で、同じ高さの馬上から返礼される陛下を、「直れ!」の号令まで、間近に拝顔することができた。閲兵につづき、「抜刀隊」の曲が大内山に響き渡ると同時に、分列行進がはじまる。一歩づつ歩く歩兵と違って、騎兵の場合は「駆け足」で駆け抜けるので、一瞬の間である。

 

「紅白の旗をつけた槍を持つ騎兵連隊の分列行進は特に美しかった。感動した」昨年の観兵式を見物した大学生の談話が新聞にのっていた。そのことが、ふっと頭の中をよぎった。宇都宮の騎兵連隊に入隊する私には縁のないことと、心にはとめもしなかったのだが。

 

前に記したように、小学五年の時、十八キロもの夜道を歩いての御親閲では、はるか遠くからしか拝することができなかったのに、今こうして、天皇陛下の直属の御親兵として、そして声が届くほどの至近距離に身を置ける、この栄誉は想像もつかなかったことである。

 

ここへ来て一ヶ月、毎日が今日のための訓練だったが、いざ本番となればあっけない。それにしても、空からの飛行機も、また機甲部隊の参加がなかったのは淋しい。騎兵連隊内にあるという戦車隊もなぜか参加しなかった。

 

昭和十八年の徴兵検査で甲種合格。同年の十月に「甲種合格 騎兵」「入営部隊 東部三十九部隊(宇都宮 騎兵連隊)」「入営期日 昭和十九年四月十日」の現役証書が届いた。

 

当時、四月十日の入営は陸軍では最後で、ほとんどが南方方面に派遣されていた。入営して八ヶ月、十一月末に近衛騎兵連隊への転属命令がでるまで、近衛要員だったことはまったく知らされていなかった。近衛師団の入営は、十八年までは一月十日と決まっていたのだが、十九年から、近衛要員ということは伏せて、各地の騎兵連隊へ集めて、そこへ近衛騎兵連隊出身の将校、下士官を派遣して教育をしたのである。東京では、初年兵の教育は出来ないほど戦局は厳しかったのであろう。そして、昭和十九年十二月一日、毎年二百人しか入隊しないという、近衛騎兵連隊の兵士になったのである。

 

私の家はなぜか近衛師団に縁があった。父の従兄弟で後に義兄なった人が、台湾征討に近衛軍曹で従軍、明治二十八年に凱旋している。かなり兵営生活は長いと聞く。父の兄は近衛歩兵二連隊で二年の満期を終えて帰郷間もなく、日露開戦で出征、満州(中国東北部)で戦死した。また、すぐ下の弟はやはり近衛歩兵二連隊で、この人は志願をして軍歴も長く、大正末期の軍縮のあおりをくって曹長で退役をしている。

 

父や叔父たちから聞く軍隊の話題は近衛兵のことばかりだった。父も炊事班長もしたこともあるという弟に招かれたり、また上京の折に訪ねたりして、近衛歩兵連隊のことは詳しかった。また観兵式にも招かれて見物をしたことを自慢にしていた。そして、騎兵連隊を儀状隊と呼んで、その衣装の素晴らしさと、観兵式の時の見事さを語り草にしていた。             終わり。