コンニャクの沿革

 昭和十年ころまでは、コンニャクの三大産地といえば広島県と茨城県両県の一部と群馬県の下仁田地方でした。

 品種は在来種の和玉種と支那種と備中種の三種でした。質的に最も優れている和玉は下仁田地方でも南牧谷が主で、それも冬凍ることのない南向きの暖かい畑に自然薯(じねんじょ)として栽培されていました。その自然薯を種玉にして冬期南向きの畑の隅に穴を堀って貯蔵して、翌年の四月、桑園の間作に植えていた程度です。南牧でも、どこでも作れたわけではありません。比較的病害に強い支那種や備中種を苦肉の策として移入して栽培した土地もあります。

 群馬郡の白郷井村(現、子持村)に生方(うぶかた)という篤農家がおり、コンニャクの種の火棚貯蔵という方法を開発しました。これが農事試験場の技師たちによってたちまち普及して、種玉の確保が容易になりました。これは戦後叫ばれたヤロビ農法と一緒で種玉の緑化が目的だと思います。秋掘った種玉を日光にあてて乾燥します。これが予備乾燥で、十二月ころ暖かく囲った部屋の棚に広げ、薪を燃やして煙りを通します。それと前後して石灰油黄合剤ボルドウ液という消毒液が開発され、いたる所で栽培されるようになりました。 

 しかし、戦争の激化により、食料の増産が必須となりコンニャクは細々と自然薯で生き延びる運命でした。

 戦後になって物資不足から、ない物ねだりで蜜柑とコンニャクは換金作物の王と言われました。コンニャクの粉は金の粉と言われたほどです。それも世の中が落ち着いてくると外国産の安いコンニャク粉が入り価格が暴落しました。農産物のすべてが天候等により価格が支配されますが、特にコンニャクは、作って半作、売って半作と言われる投機的な商品で、農家はいつも値段の上下に翻弄されました。

 昭和三十年前後よりの栽培は、すべて種玉の植え付けで、四月下旬より五月にかけて行われるようになりました。植え付けが終わると施肥培土、六月から七月の開葉をまって消毒作業がはじまります。一週間ないし十日おきに行い、九月の彼岸ごろに終ります。収穫の堀取りは霜の降りる十月の末から始めます。

 鍬だけの農業から耕耘機、そしてトラクターの使える平坦地へと、規模も拡大され、今は一般の農作物となり全国どこでも栽培されているようです。