兵士の目から見た東京大空襲の記録
 近衛騎兵として、東京にいた兵士が見た東京の空襲のようすです。この立場からの記録はまったくないようですので、思い出せるかぎり詳細に記録しておきます。

 自費出版した「近騎戦車兵の記録」にも詳細な記述がありますので、興味のある方は御連絡ください。http://www4.freeweB.ne.jp/novel/m-take/motokinki.html

                  

 宇都宮から空襲下の東京へ

 昭和十九年十一月二十五日、朝の点呼で

「昨夜、東京へ米軍の B二十九が数十機来襲(八十八機)、大量の爆弾を投下、かなりの被害がでた模様」

と、告げられた。

 朝食後、私たち十六名に、東部四部隊(近衛騎兵連隊)に転属の命令がでた。同時に三泊四日の外泊許可もでた。

 軍隊内ではさほどの緊張感はなかったが、帰省をしてみると、昨夜の空襲は大変な騒ぎで、大平洋戦争が開戦になった、十六年十二月八日以上である。

 外泊最後の夜(二十七日)も、B二十九が大挙来襲(八十一機)と、ラジオが告げた。

 帰隊した翌二十九日の夜も、空襲(三十機)に見舞われたという。

 十二月一日、宇都宮を出発、上野駅へ着いたが空襲のつめ痕はない。市民の姿は防空一色で、男性は巻き脚絆(きゃはん)に鉄帽か防空頭巾(ずきん)を背負い、女性はモンペに防空頭巾を背負っているが、思っていたより落ちついているように見える。

 そして,宇都宮でもそうだったが、大きな建物の屋上には水の入った防火用の桶(おけ)がすわっている。長い棒の先につけたわら縄(なわ)を桶の水に浸して、落ちてきた焼夷弾や飛んで来た火の粉をたたいて消す寸法らしい。誰が考えたものだろうか?

 上野駅で山手線に乗り換え、高田の馬場までの車窓からも空襲のつめ痕は見えない。

 三日。近衛兵となって三日目、代々木の練兵場で、師団長以下幕僚が立ち会いのもと、私たち二年兵の入団式が挙行された。近衛師団だけといっても、その数は一万余、帝国陸軍の威容に、力強さと限りない感動を覚えた。

 昼間の興奮が残る午後十時ころ突然、四方八方からサイレンが鳴った。はじめて聞く音である。闇をついて不気味にひびく。階下で「警戒警報発令」の声がくり返す。いよいよ来たかと改めて自分も帝都にいるのだと身が引き締まる。古兵たちは慣れたもので暗い中をいそがしく駆け出して行く。

 私たちはまだ任務が決まっていないので、身支度(みじたく)だけして内務班で待機である。「B二十九の大編隊が八丈島上空を通過」との後、間もなく「帝都上空に接近」と「空襲警報」に変わった。はじめての経験でじっとしてはいられず、全員が窓ぎわに集まって外をうかがう。屋外は完全に灯が消えて真っ暗闇。周辺はうつそうとした木立で、わずかに西北の空が見えるだけである。暗い地上とは対照的に、雲一つない空には無数の星が冷たくきらめいていて、これが東京の空かと錯角してしまう。探照灯や照明弾の光も機影もなく爆音も聞こえない。静寂そのものだ。この帝都の空のどこかに敵機が間違いなくいるはずだがと、あらためて東京の空の広いのにも驚いた。

 「見えん」「さっぱりわからん」「この先どうなるのだ」と切歯拒腕(せっしやくわん)する者もいれば、「星が美しい」と妙なことに感心している気楽な御仁(ごじん)もいる。我々二年兵の度胆(どぎも)をぬいてやろうとの、米軍さんの思惑ではないかと話したりした。

 師団長以下きら星のような幕僚、万を超す我ら二年兵の三倍の近衛兵が、数十機のB二十九の通過をなんのすべもなくじっとしているこのむなしさ。昼間のあのわき上がるような力強さ、感動は一体何んだったのかとの疑問がおこる。

 真夜中になってようやく警報は解除になったが、長い一日だった。

 二十七日。三日以来、B二十九も単機で来るだけで、小康状態がつづいたが、暮れも押しせまった二十七日の夜、寝込んで間もなく警報に起こされた。夜のしじまを破って四方八方でサイレンが鳴りひびく。私たちも持ち馬が決まり、衛門に通じる坂道の周辺の常緑樹の木立の中へ、曳(ひ)き馬で誘導しそこで解除になるのを待った。

 二十八日。昨夜は解除になるのが遅かったので、人馬とも疲れているので午前の演習は休みだった。午後になるとまた警戒警報が鳴った。B二十九の大編隊が接近中とか、それから空襲警報に変わるのに時間はかからなかった。ほどなく西方の空を重い爆音がゴウゴウと大地を押さえるようにひびいてきた。かなりの数なのだろう。木立の葉越しにチラチラとB二十九の姿が見える。高度はかなりあるらしく巨大なはずが烏ぐらいにしか見えない。爆音に混じってパンパンと高射砲の炸裂(さくれつ)音が威勢よく鳴るが、その煙りの位置から見て弾は届いていない。友軍の戦闘機も飛び立っているようで、キーンキーンと鋭い金属音が耳をつく。すさまじい修羅場だろうが、ここからは音だけで実態はわからない。煙りや炎も目に入らないところから、近くでないことは確かである。

 三十一日夜も空襲警報が発令されたが、今度は焼夷弾を使って、焦土戦術に転換したという。

 二十年元旦朝早く、三、四年兵が馬運動をしただけで行事はない。

 内務班にいると突然空襲警報が発令になった。とるものもとりあえず舎外に出ると、屋上にいる監視兵が「敵機発見!、敵機上空!」と叫んでいた。上空を見ると鳩くらいのB二十九がただ一機爆音もせず、朝の日をキラッ、キラッと反射させながらかすかな四本の白線をひいて、高射砲の炸裂音も、また迎撃する友軍機もない空を、ゆうゆうと東南方向へ飛んで行った。昨夜、投下した焼夷弾の戦果を,偵察に来たのではないかと想像をしたりした。

 七日は代々木の練兵場で観兵式の予行演習が行われた。そして翌八日、観兵式を皇居前の広場に変更して行われた。空襲を避けてのことだったろうが、幸いにも心配した空襲はなかった。帝国陸軍最後の大観兵式だったが、両日とも馬を駈けての帰路だった。

 十三日、昨年の七月、四部隊内に創設された戦車中隊の下士官候補者を志願して、はれて、あこがれの戦車兵になった。

 戦車隊は空襲になっても、車付きの下士官なり兵が、受け持つ車輌の配置につくだけで、私たちのような教育中の者は任務もなく、内務班で待機するだけである。乗馬兵に比べればその点は非常に楽だ。

 観兵式前後の十日間は空襲もなく平穏だったが、私が戦車中隊へ転属が決まった十二日の夜から、さみだれ的に空襲はつづいた。そして、元日と同様、昼間B二十九が単機で飛来する。これを定期便と呼んだ。

紀元節

 二月十一日、朝から雲におおわれて、今にも雪が舞いそうな底冷えのする日だ。祭日で演習はない。カーテンもないがらんとした広い部屋で、私たち下士官候補者十三名は、ゆったりした気分で寝台に横になったりして、あいかわらずのお国自慢の食べ物等、たわいのない話に花を咲かせていた。

 突如、空襲警報が鳴った。曇っているのでサイレンの音はひときわ強くひびく。その音が鳴り終わらないうちに、キーンキーンと金属音がはげしくガラス窓を震わせる。

 何ごとかと窓越しに外をのぞくと、無数の戦闘機が乱舞しているが、空中戦が行われているようでもない。B二十九を迎撃する友軍機にしては水平飛行だからおかしい。全員が窓に釘づけになっていると、いきなりどこからとなく、双胴にクッキリ星のマークを付けた戦闘機が窓すれすれに飛んで来た。飛行帽の眼鏡の搭乗員の顔が手にとるようだ。「敵機だ!」 いっせいに体を伏せた。一瞬の間だったがまさに冷汗三斗の思いだった。どうやら機銃掃射だけはまぬがれた。退避の命令はなく終日部屋にこもった。

 房総沖の航空母艦より発進した艦載機で、その数は五百機以上だったとか、波状攻撃は日没までつづいた。

 後で聞いた話だが、旧幼年学校の営庭に退避した戦車が対空射撃をしようとした。ところが搭載の火器は地上戦が目的で、そのままでは対空射撃はできない。重機関銃をはずして、戦車の上に据えて敵機の飛来を待った。

 やがて敵機が高度四、五百メートルくらいまで接近してきたのを目がけて、一斉射撃をはじめたところ、ひるむどころかこちらを目がけて急降下して来た。一目算に戦車の下へ転げこむようにもぐった。空からの機銃掃射は反復して行われた。その弾は戦車やコンクリートの地上に激しくはじけ、生きた心地はなかったそうだ。

 南方戦線で、たった四輛で歩兵一ケ連隊を撃破したという九五式軽戦車だが、戦闘機が相手では歯がたたない。戦車と航空機の火器の威力は比較にならないそうだ。

 この日以来、防空壕掘りが本格化して、操縦桿(かん)を十字鍬(くわ)や円ピ(シャベル)に変えての毎日で、下士官候補者の教育どころではなくなった。まず内務班の壕を中隊兵舎のすぐ裏手の斜面に横穴式に掘った。寝具用のわら布団以外はすべて収容できる。仮眠程度なら可能な大きさである。つづいて戦車の掩体壕(えんたいごう)掘りだが、図体が大きいのと数が多いので容易ではない。

 空襲は昼夜の区別なく頻繁になった。夜間の空襲は、二、三十機程度で高度は一万メートル前後。迎撃する友軍機と撃ち合う曳光(えいこう)弾が交錯する。地上から探照灯が綾(あや)をなして空を彩り高射砲が火を噴く。空から照明弾を落として地上を照らし、ねらいをつけて焼夷弾をまく。暗闇の空中をチラチラと炎の尾を引きながら落下する。それが地上に届くと同時に四方へ飛散して紅蓮(ぐれん)の炎が上がる。目の届くところでは壮烈きわまる死闘だが、私たちは無力でなすすべもない。ただぼう然と見ているだけである。翌日は定期便が飛んでくる。

 空襲の夜に限って、警報下で灯火管制の暗闇の中、北々東の方向で空に向けた光りが目撃された。なんとも不気味だった。「スパイが合図しているのではないか」と勝手な想像したものだが、正体は分からない。

陸軍記念日(三月十日)

 三月九日、明日は陸軍記念日だ。紀元節の例から今晩あたりはと思っているうちに、東部軍のサイレンがプーときた。まだ九時三十分だ。

 身支度をしていると、廊下で

「警戒警報発令、B二十九大編隊、伊豆半島上空に接近中。各自配置に付け!」

と大声でくり返している。人々の駆け出す音が騒々しい。

 私たちは決められた部署はないが、いちおう屋外に出た。車廠(しゃしょう:車庫のこと。通常の体育館などよりよほどでかい)に向かう者、屋上に登る防火班。

 班長が

「下士候は壕に入って待機せい!」

と言って車廠へ走った。

 曇っていて星一つ見えないが風はかなり強く吹いている。だんだん夜目にもなれてきたので、連れ立って車廠に行ってみた。車輌はすべて退避して、からの車廠の庭は防空頭巾と防寒具に身を包んだ市民であふれている。随分疎開したというのに、よくも集まったものだと驚いたが、まだぞろぞろ入って来る。人家が密集しているので安全な場所がないのだろう。戦車中隊は秘密にされているので、立哨兵もいないし、衛門もないので格好の避難場所に見えるのだろう。リュックサックか風呂敷包みを背負い、鍋や釜を手にしている。食事は常時用意しておくのだろう。どうも今晩はただごとではない。

 私たち以外兵隊の姿はないし寒いので壕へ引き揚げた。狭いながら中は暖かい。兵隊の気軽さで、さして緊張感もなく他愛のない雑談で時を過ごしていた。

 空襲警報に変わったのはかなり時間がたってからだった。とうとう来たかと息をひそめていたが、誰か動く気配がした途端、扉が開くと外は真昼間のような明るさだ。「あれ!」と夢中で飛び出した。

 あれからわずかな時間だったが、南東の下町方面一帯は火の海だ。雲と煙りが空をおおってそれを燃えさかる紅蓮の炎が焦がしている。煙りの中を爆音が重くうなっているが、かなり低空のようだ。波状的に襲っているらしく、東西に火災を広げている。この世とは思えない。阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄が目の前に広がっているが、ただぼう然と眺めているだけだ。

 濃い煙りの中から、突如B二十九の巨体がまっ逆さまに落ちる姿が赤い火に映った。瞬時の出来事で後は何の変化もない。多分東京湾の海中へ墜落したのだろう。思わず一同万歳を叫んだ。波状攻撃は延々三時間もつづいた。

 空襲警報が解除になって、それぞれの部署から戻りきらないうちに、消火作業への出動命令が出た。一度もそのための訓練などしてなかったので、持ち物すらわからない。思い思いに十字鍬や円ピ、掛矢、火叩き等を手に装甲兵車に乗った。車は吹雪きの中を疾走した。

 高い塀に囲まれた邸宅(宮家)のかたわらで車は停まり待機することになった。被災地に近いらしく電燈は消えている。うっすらと積もった雪明かりの中を、憲兵が立って警戒していた。時々巡察に来る指揮者に「異常ありません」「引き続き警戒せい」と緊張した声が、凍った闇の中にひびく。強い北風が幸いして延焼をまぬかれ、行動することもなく夜明けを迎えた。戸山町までの帰路は白一色で、この辺りには昨夜の爪跡はなかった。

 一睡もしない中、陸軍大学校へ壕掘りに行くことになった。手慣れた作業で早めに作業は終えた。陸大は日のあるうちに出た。時間があるので上野までと電車に乗った。しばらく行くと見渡すかぎり焼け野原だ。コンクリートの建物と、焼けた枯れ木が立つだけで、一面ガレキである。燻っている所もある。

 上野で電車を降りると、ここも焼きつくされて人影すらない。焼跡の地面はまだ熱い。曲がりくねった水道から水が噴き出しているのが妙に印象的だ。

 これが、いわゆる三月十日の東京大空襲である。ちなみに平成五年八月二日の某新聞によれば、米国の発表として、来襲したB二十九は三百二十五機、そのうち墜落九機、死亡した搭乗員九十一名だったそうである。

天長節(四月二十九日)

 小規模の空襲は日常茶飯事だが、紀元節、陸軍記念日と祭日、祝日は特に大規模だった。明日は天長節である。もしかしたら今晩あたりはと話していたが、やはり適中した。

 「B二十九の大編隊が八丈島通過」三月九日と同じコースだ。下町方面はすでに焼き尽くされているので、今晩は危ない、狙われる。皆が同じ思いで壕に飛び込んだ。三月十日の例から扉は開けたままにしておいた。風もなく静かで天気もよく満天の星だ。突然「敵機上空!」と、かん高い叫び声がする。その声にわれ先に壕から飛び出した。

 空いっぱいの大編隊が西の方からこちらへ向かって来る。高度はいつもより低いようでゴーッ、ゴーッと重く大地を震わせる。小さくて姿は見えないが友軍機も飛び立っているのだろう、曳光弾がはげしく飛び交う。高射砲も狂ったように火を噴いて、その炸裂音もすさまじい。時々真っ赤の火の玉が落ちる。その大きさから友軍の戦闘機だろう。無数の焼夷弾がチラチラと炎の尾を引きながら、空一面に降りそそぐ。身の危険も忘れてしまう、まさに一大地獄絵だ。

 敵機が頭上に迫るのに時間はかからない。無数の焼夷弾がすごいスピードで落下する。逃げようにもその余裕はない。運は天にまかせるだけである。開きなおった気になる。焼夷弾は私たちの兵舎から二百メートルとは離れていない軍楽隊の兵舎を直撃した。あまりにもたくさんの数で、届くと同時にパッと火柱が上がって、一瞬に燃え尽きた。空気の乾燥する新緑の季節だからたまらない。火はたちまち隣の炊事場へ移った。そこはかつて戸山学校の炊事場だったとかで、私たちの兵舎とは屋根のある廊下つづきである。

「軍楽隊の炊事場が危ない。救援に行け!」

との声に、私たちは夢中で飛び込んだ。中では数人が懸命に消火にあたっているが、火はすでに屋根裏をはっている。指揮をとっている将校が、私たちを見ると

「そこの食缶の水をかけてくれ」

と指した。そこには二十個ばかりの水の入った缶が並んでいる。私はその一つを持った。よく、火事場の馬鹿力、というが、それとは逆に重い。底に手をかけて燃えさかる炎にかけたが足下へポタボタと落ちてしまった。見れば豆腐だ。わかっていれば外へ持ち出したものを、かえすがえすも残念だった。常に腹をすかしているので食べ物には愛着がある。食缶で水をかけるくらいではおさまらない。中は火に囲まれてしまった。逃げるしかない。外では破壊班が渡り廊下を壊している。ようやくその一部が片づいて火は止まった。爆音は消えたが、上空をおおっている煙りの雲を燃え上がる紅蓮の炎が焦がしている。

 何時間たったろうか、もう夜明けも近い。車廠の様子を見に行くと、門を一つにする第一陸軍病院におびただしい担架が次々に運び込まれる。どこかの部隊が直撃を受けたのだろう、焼夷弾による火傷のようだ。

 焼夷弾は六角形で、直径七センチはあろうか、長さは四十センチくらいで、中に油脂が入っていて燃えながら落下し、着地するとその油脂が四方へ飛散する。非常に粘着性が強く、しかも引火も早い。万一、衣服に付いたら素早く脱ぐ以外に助かる方法はない。日本のような木造家屋に対しては一番効率がよい爆弾であろう。

海軍記念日

 大空襲からやがて一カ月、五月二十七日は海軍記念日である。当然大空襲があると思っていたら、その日を待たず二十三日の夜半に来た。三月十日に襲われた所が再度叩かれたようだ。その方面にはもう燃える物も少ないのだろう、前回のようなすさまじさはない。

 ここ戸山町の中では、四月二十八日払暁(ふつぎょう)の空襲で、軍楽隊の兵舎と炊事場が焼けただけで、他に被害はなかった。しかし周辺の民家はほとんど焼け出されて、もう空襲になっても避難して来る市民の姿はない。

 二十七日の予想が一足早かったので、これでしばらくはゆっくり眠れるだろうと、二十四日も二十五日の夜も消灯を待たずに床にもぐった。ところが、それもつかの間、警戒警報が発令になった。

「B二十九大編隊、伊豆半島上空通過!」

と、大声が聞こえる。

「しつこいなあ!」

と、皆あきれ顔で飛び起きる。連合軍の戦力の大きさを、いやというほど思い知らされる。

 疲れで重い足を引きずりながら舎外に出た。よく晴れた五月の夜は明るく空は満天の星だ。この空にB 二十九の大群が襲いかかるとはとても思えない静けさである。吹く風も肌に心地よい。火叩きの棒を持った人たちはもう屋上で配置についている。この人たちは高い所から何度も地獄絵を目撃しているのだ。

 私たちは壕の中で待機するはずだが、まだ警戒警報中のことだし、何といっても初夏の晴れた夜は気持ちが良いので、壕の中に入る気にはならない。

「B二十九大編隊、進路を帝都に向け上空に接近!」

と兵舎の方で大声がした。間もなく、ゴーゴーとひびく爆音が聞こえてきた。その音でひとまず壕へ入った。すると扉が開いて、

「ここは危ない!、お前たちは車廠へのがれろ! ここは俺が守る」

と、言いながら班長が飛び込んで来た。

「早くせんか!」

班長の緊迫した声にはじかれるように壕を飛び出した。

 兵舎の前で、鉄帽をかぶった中隊長が屋上に向かって

「全員退避!」

と、くり返し叫んでいる。私たちもその人たちが気がかりで、立ち止まって見守った。降りきったのを確認する間もなく煙りが辺りを一瞬にして包んでしまった。もう敵機は頭上である。かなり低空なのだろう。爆音は空を圧して大地を震わせてうなる。あたりは真っ暗闇だ。

 突如、ザーッとにわか雨が降りそそぐような音と同時に、真っ赤の火を噴いた無数の焼夷弾が目の前に現れた。その光に映し出された兵舎を、焼夷弾は吸い込まれるように直撃した。それと同時である。巨大な火柱が噴き上がった。建て坪三百はあろうか、木造の兵舎が焼け落ちるのは一瞬の間で、ものの三分とは要しなかったろう。その明かりの中で中隊長はじめ私たち、それに屋上から降りた消火班の人たちも、一様にぼう然と立っていた。

 焼け落ちた兵舎の向こうの壕の前に仁王立ちの班長の姿が映しだされた。私たちとその間は火の海で行くことは出来ない。

「車廠に避難せい!」

中隊長の声に吾に返った。煙りはますます激しく息苦しい。爆雷は大地が裂けるようにひびく。今にも頭上から焼夷弾が降るかも知れない。生死の境とはこのことか。このまま死ぬかとの思いもあるが、不思議と恐怖感がないし、生きたいとか、助かりたいとか、そうした気持はない。車廠が安全だからという自らの意志からではなく、上官の命令は絶対である。その服従精神からだろう、無我夢中で車廠に向かって走った。車廠へ着いて名前を呼び合って互いの無事を確認し合ったが、気がかりなのは班長である。

 延々とつづいた爆音も、二十六日に日が変わって間もなく止んで静けさを取り戻したが、徹底的にやられたらしく紅蓮の炎が天を焦がしている。

 余塵の残る中、まんじりともせず早い夜明けを待った。辺りが明るくなったころ、三々五々焼け落ちた兵舎の前に集まった。舎前の庭で点呼をとったが、幸いにも死亡者はもとより負傷者すらいなかった。

 数日後、焼跡の整理に当たった古兵の話によると、灰の中から五百本以上の焼夷弾の殻が出たが、一本も建物から外れていなかったそうだ。近くに第一陸軍病院や軍医学校があるのでより正確を期したのだろう。鬼畜と憎む敵ながらあっぱれと感心した。

 一応、罹災者となった私たちは、本部の被服倉庫へ移った。それから二日後の夜、寝ばなを起こされた。移ったばかりで、受け持つ部署もなければ隠れる壕もない。ここで狙われたら生命を絶たれる。すべてが終わる。

 はるか南西方向の空に爆音がひびくが、今夜も大規模のようだ。高度は一万メートルもあろうか、無数の焼夷弾が光りの尾を引きながら、チラチラとゆっくり落ちている。不謹慎ではあるが、無数の炎はあたかも盛大な提灯行列を眺めるようだ。

 これまで比較的被害に合わなかった、品川、大森、蒲田、川崎、横浜方面がやられているらしい。西南の空が真っ赤に燃えている。

 過去四度の大規模の空襲で、京浜地区は壊滅してしまった。