宮城を舞台にした終戦劇

                    地下壕に分散

   昭和二十年五月二十五日の夜半の空襲で兵舎を焼かれた戦車中隊は、本部(牛込区戸山町)の被服(ひふく)倉庫へ移った。

 近衛騎兵連隊の兵舎や厩舎(きゅうしゃ)に空襲の爪あとはなく以前のままだが、兵と軍馬はほとんど疎開して閑散としていた。

 落ち着く間もなく、指揮班、第一、第二、第三、と段列の五つの小隊に編成され、連隊に近い牛込区の矢来(やらい)町、弁天町の焼け跡を中心に分散して疎開することになった。

 まず、あき屋になった厩舎を解体し、その木材を使って、掘った壕の中に掘立小屋の兵舎を建てた。屋根はカワラぶきで中央に空気孔をつけ、上空から見ても発見されないように盛り土をした。内部は中央に入口があって、通路をはさんで寝台が並び、整頓棚もつく念のいったつくりで、四十人くらいは楽に起居できる。舎内にはいくつもの裸電球がついた。露天の浴場もできた。戦車隊は歴戦の下士官、兵が多い。野戦で覚えた設営の経験がいかされている。

 私は、矢来町の指揮班に配属になったが、中隊長室と事務室は焼け残った石つくりの建物で、壕舎は班長以下、下士官、兵三十八名である。

 日課は壕舎の周辺に戦車の奄体壕(えんたいごう)を掘ったり、それぞれのたこ壺堀りである。私たち下士官候補者の教育はほとんど自習で、週二、三度、わずかの時間をさいて戦車の操縦訓練が行われるだけである。

 疎開してからの、食糧事情は悪化するばかりで、誰もが、文字どうりの骨皮筋エ門で、みるもあわれな姿に変わってしまった。

 五月末以来、関東地方への空襲はなかっが七月末、B二十九が単機で飛来、「ポツダム宣言を受託して無条件降伏をすれば、兵士はそれぞれの故郷へ帰して平和産業につかせる」という意味が書かれたビラをたくさんまいた。

  七月になってもカンカン照りの日がつづいた。九日に長崎へ、非常に強力な新型爆弾が投下され甚大な被害があったそうだ。また、ソ連が一方的に宣戦布告をして、満州(中国東北部)に侵入、激しい戦闘がつづいているという。沖縄も六月末、連合軍の手に落ちたらしいと、うわさがある。

 十二日の早朝、空襲警報が発令になった。帝都上空は静かだったが、房総方面に艦載機が多数飛来して爆撃をしたという。また九十九里浜には敵艦船が接近して艦砲射撃を行ったそうだ。いよいよ本土決戦が目前の緊迫した感じである。

 その日以来、作業命令も、私たちの教育もなく、手持ち無沙汰の日々だが、指揮班の本部では将校の出入りが頻繁で、ただならぬ気配である。

 十四日の夜、就寝してまもなく、「空襲警報発令、全員起床!」週番下士官の声でとび起きた。「B二十九の大編隊が伊豆半島上空を通過、各自部署につけ」 時計の針は午後十一時をさしている。五月末以来の大挙来襲である。

 私は十八号車の車付きを命じられていたので、指揮班の裏手にある戦車壕に走った。暗闇の壕の中、手さぐりで操縦席について、警報が解除になるのを待った。

 「空襲警報が解除になりました」のしらせで壕舎に帰ると、時計は午前二時を回っていた。明朝は、二時間の起床延期というので皆のんびりしていて、寝台に横になってはいるが、まだ誰も眠ってはいない。

 そこへ、ひょっこり中隊長の当番兵の間宮兵長が入ってきた。「今夜は北関東の軍需工場地帯がたたかれたそうだ。先刻、連隊本部より将校伝令集合の命令が届いて、関口少尉殿と枝島少尉殿が出向いた。他の将校も全員が中隊本部で待機だ。俺はまた本部に行かなければならん。今晩は眠れんかもしれん」といって出ていった。応召まで茨城県で警察官をしていたという間宮兵長は、職業柄、情報にも敏感で言葉にも信憑性があるのだが、さほど気にもせず皆眠りについた。

                     出動命令

 「起床起床、全員舎前に集合! 他の小隊は集まったぞ!」 週番下士官の異様な声に起こされた。
  屋外は暗く、夜はまだ明けていない。他の小隊は集まっているようだ。東の稜線がかすかに明るいが、人の判別はつかない。しだいに闇に眼がなれたころ、中隊本部の方から、中隊長以下将校が急ぎ足で来る。内務係が全員集合を中隊長に告げる。中隊長は軍刀を腰からはずし、左手でわしづかみだが、暗くて顔色はわからない。

 「気をつけ!」 中隊長は重い口調で言ってから、「平重盛が泣いて、父清盛をいさめた故事を思い出してもらいたい。当中隊はこれより某方面へ出動する。よってお前たちの命は今ここで中隊長に預けてもらう。欠礼のないよう上装衣服に着替えて、ただちに出動準備をせい。解散!」とにかく急ぐようで、敬礼は省いて足早に戻っていった。

 さっそく衣服を着替え、奥富伍長の操縦で十八号車を壕より道路に移動する。

 ここ高台から見れば、十八輌の戦車の前照灯が闇を走り、轟音がしじまを破る。やがて段列小隊の弾薬、燃料を積んだ六輌の大型貨物自動車のライトの長い光が綾を織って走る。いずれも積載量が多いので時間がかかる。夜明け前とはいえ、長いこと雨のない焼けきった大地、それに上装衣服での作業で汗びっしょりである。

 中隊本部より戻った車長の和田軍曹が、「二人とも聞いてくれ。十分後に出動するが、十八号車は単独で師団司令部に直行して、そこで通信連絡にあたる。これは極秘で多言してはならぬ」と言う。

 あと十分では時間がない。燃料は入ったが弾薬が足りない。見切り発車でもやむをえない。

 中隊はいったいどこへ行くのだろうか? そして私たち一輌は別行動である。まもなく中隊の人たちとの今生の別れがくる。

 今日かぎりの生命かと思うと、両親や弟、姉妹、親戚や知人の顔がしきりに脳裏をかすめる。大君のためとか国のためというのはたて前で、俺は家族や故郷の人たちを守るために戦うのだ。それで死ねれば本望だと、ふと思ったが、この緊迫した状況を、わずかな距離の故郷ではしるよしもないと思うと無性にむなしさがこみあげてくる。大声で叫びたい心境だ。

 あれから十分はとうに過ぎたろう。積載も終わったが出動命令が出ない。和田軍曹も本部へ行ったきり姿を見せない。ようやく地平線上に太陽が顔を出した。起床してどのくらい時間がたったろうか。やがて「六時まで出動延期、充分に準備をするように」と連絡があった。しかし六時になっても出動命令はない。七時近くになって「はやめに朝食をとって待機せよ」と、話がころころ変わる。

 食事場では盛りつけが終わっている。相変わらずの少量の高梁飯だ。死出の旅立ちにしてはあまりにもご粗末で情けない。重苦しい雰囲気で話しをする者はいない。昨夜はろくろく眠っていないので皆壕舎へ急いだ。

 私も横になった。今朝、中隊長が言った平家の親子の話の意味が心に引っかかってならない。泣いていさめる重盛は、戦車中隊だけなのか、あるいは近衛騎兵連隊なのか、それとも近衛師団全部なのか、規模等まったくわからない。では父清盛は誰か? おそれおおいことだがよもや天皇陛下では? 欠礼のないよう上装衣服着用となれば、行く先は皇居であろうか?。

 出陣準備の整った父清盛が、平服でいさめに来た重盛の手前、あわてて身に付けた鎧を、衣で覆って隠したという話がある。 

 平服の天皇陛下を武装していさめに行くのだから、今回は話が逆だ。天皇陛下のご馬前で死ぬことを誇りとしていた。これは下克上である。近衛兵としてあってはならないことだ。まさしく反乱である。大逆罪である。五、一五事件や二、二六事件どころではない。

 今朝からの気配では、当中隊の本来の任務である長野県の松代の地下の大本営に、天皇陛下をはじめ高貴の方々を護送するための出動とはとうてい考えられない。

 いつか拾ったポツダム宣言云々の、無条件降伏が現実味をおびてくる。疲労困憊し戦意のない兵を見かねた天皇陛下と、軍の上層部とが戦争遂行をめぐって激しく対立しての挙兵ではないだろうか。いずれにしても天皇陛下と軍の首脳との意見が二つに割れていることは間違いない。

 国家存亡の危機とはいえ、絶対服従を天の声として教えられてきただけに、指揮者の命令にそむくことはできない。だからといって、平重盛の心境になって天皇陛下を、おいさめするために戦車を出動させるのはあまりにも無暴ではないだろうか、そんなことは絶対ありえないし、また信じたくもない。あるいは、反乱が勃発し、皇居を護るための出動とも考えられる。あれやこれと考えてるうちに頭の中が混乱してしまう。いつのまにか眠ってしまった。

 「おい、起きろ!」 肩をゆさぶられて眼をあけると、和田軍曹が立っている。「奥富伍長と十八号車を壕に入れてこい」 時間は九時を回っている。よく眠ったものだと思いながら外に出た。真夏の太陽がギラギラ照りつけて、眼がくらむ。今朝のあの騒ぎがうそのように静まりかえって、二日も三日も前のような感じがする。

 正午に重大放送があるから、その前に食事をすますようにと告げられた。食事場を見て驚いた。軍隊に入って一年五ヶ月、ついぞお眼にかかったことのない、それこそ純白という言葉がピッタリの、まばゆいばかりの白米が山盛りだ。おとなげもなく歓声があがる。

                   生ける屍(しかばね)

 炎天下で暑いので時間ギリギリに舎前に出たら、各小隊とも整列している。中隊長以下将校は五分前になって来た。軍刀を左手に殺気だった今朝の異様な姿とはうって変わり、足どりもいつもと同じである。心なしか顔色が青ざめているようだが、おそらく昨夜から眠っていないのだろう。

 敬礼を受けた後、ゆっくりした口調で、「正午を期して「気をつけ!」 おそれおおくも、天皇陛下のご放送が行なわれる。つつしんで拝聴するよう」 朝のたかぶった声とはあまりにも対照的な弱々しく思える声だ。

 やがて君が代が流れ、天皇陛下のご放送が始まった。暑さも忘れて一言一句聞きもらすまいと耳をかたむけるのだが、何分ラジオの調子が悪く雑音で聞き取れない。途中「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の、ふるえるようなお言葉だがそれだけはハッキリわかった。放送が終わると同時に、ため息とも驚きともつかぬざわめきが起こった。

 やがて中隊長が「ただいまをもってて日本は無条件降伏をした。くれぐれも軽挙妄動はせぬよう。戦車に搭載した弾薬はただちにお下ろせ」と指示して解散となった。未明から八時間以上はたったろうか、あまりにもあっけない幕切れである。

 満州事変から数えて十五年、私たちの人生は戦争の明け暮れで、兵士として死ぬことと信じていた。降伏ということは考えたこともない。だが、今この高台に立って見れば、見渡すかぎり焼け野原である。多くの人々が家を財産を、そして尊い命を失っている。なぜもっと早く手を打たなかったのかと悔やまれもする。勝利を叫ぶ口とは裏腹に、もはや戦う力はなかったのである。

 上装衣服を作業着に着替え、戦車の弾薬を集めに来た段列のトラックに渡すと、急に力が抜けてしまう。もう後は眠るだけだ。寝台で横になったが、頭の中は故郷のこと、過去のこと、軍隊に入ってからのこと、朝からのことやこれから先のこと、あらゆることが走馬燈のように頭の中で行きかう。

 誰もが同じ思いだろう。三十八人もいるのに物音一つしない。皆一様に寝台によこたわっているが、語ろうとする者がいない。放心状態というのだろうか。哀れな「生ける屍」と自嘲するばかりである。

 夜の九時ごろ、間宮兵長がつかれたようすで入ってきた。寝台に横になって昨夜から今朝にかけての一部始終を話した。その内容はこうである。

 ここ二、三日、皇居ではボツダム宣言を受託する人と、徹底抗戦をとなえる人とで激しく対立した。結局、天皇陛下の御裁断で受託が決定した。そして、天皇陛下御自ら終戦を告げる勅諭(ちょくゆ)を放送するために皇居内で録音なさったそうだ。これが行われたのが十四日のことで、今日の正午に全国に向けて放送されたわけだが、この放送を阻止するために、近衛師団長名で録音盤奪取の命令が近衛歩兵二連隊にくだった。この命令を受けた二連隊はただちに皇居を占拠し、くまなく探したが発見できなかった。そこで今度は当戦車中隊を出動させて、放送局を占領封鎖させようとはかった。その命令が騎兵連隊に届いたのが午前二時過ぎ、それからあの騒動が始まったのである。

 しかし、その命令を不審に思った連隊長が、東部軍司令部に照会した。それを受けた司令官の田中大将自ら、近衛師団司令部へ乗り込んだところ、すでに師団長は殺害された後で、命令は偽であることが判明した。

 徹底抗戦を叫ぶ、陸軍省軍事課の少壮の佐官たち、近衛師団の参謀たちが国体護持の美名の下に、放送阻止の命令を出すよう師団長に迫った。聞き入れないので殺害、命令を出したのである。歩兵二連隊はまんまとそれにのせられたのである。以上が間宮兵長の話である。

 万が一にも、連隊長の伊藤大佐が命令に疑問を抱かず、弾薬を満載した戦車全部を出動させていたら、おそらく今日の放送は行われなかったろう。もしも、決行されたら、くり返しになるが、私たちは、二、二六事件に何も知らずにかり出された兵士以上の反乱軍になったわけである。

 殺害された、森猛師団長は○ゴ車の視察に何度も来られたが、作業や演習中の者からは敬礼を求めなかった。五月、皇居内の吹上げ御苑でのア号作戦の現場に時々巡察に来られたが、「敬礼はいらん、兵は疲れておる。休憩の者は眠かせい」と、指揮者に命じる温情のある将軍だった。

 師団長が亡くなった驚きもさることながら、偽の命令を出した一味に、師団長と交替で○ゴ車の視察に来た師団参謀の、古賀少佐が加わっていたという話は非常なショックである

 右肩から胸に下げた参謀肩章がまばゆいばかりで、眉目秀麗(びもくしゅうれい)、前内閣総理大臣東条英機大将の女婿ということで、私たちのあこがれの的であった。古賀少佐にとっては、この戦車中隊は関係が深く信頼してのことであろうが、こちらにとってはその人が偽の命令を出したというのだからたまらない。やりきれない気持ちだが、偽の命令を出した直後、自害して果てたと聞いて、それがせめてもの救いである。

 以上が、宮城事件の中の、戦車中隊に降った命令の顛末である。

                     幻の戦車中隊

 この戦車中隊は、昭和十九年七月、近衛騎兵連隊の中に創設された。○ゴ車は、天皇陛下を始め皇族方をお乗せする車だが、急ごしらえだったのだろう、装甲兵車を改造したものである。客室の内部は視察に来る森師団長と参謀の古賀少佐以外、見ることは絶対に許されなかった。降伏後、軍が解散するにあたり、全車輌を赤羽の工兵隊で解体することになって運んだ時、○ゴ車の扉をあけて見ると、床にはじゅうたんが敷かれ、幾つもの寝台があり、天井には豪華なシャンデリヤがセットされていた。

 中隊の構成は、六輌の○ゴ車を護衛するための九五式軽戦車十八輌、装甲兵車六輌、大型貨物自動車六輌で、すべてが新品の装備である。○ゴ車一輌に戦車三輌、装甲兵舎一輌、大型貨物自動車一輌の編成であろう。

 兵員は約二百名、野戦での経験も長く、軍隊の酸いも甘いもしりつくした兵卒あがりで、三十代なかばの大尉が中隊長。他に大学卒の幹部候補生出身の少尉が四名、内務係の准尉一名、曹長二名だが、七割以上が下士官である。近衛騎兵出身は、内務係の准尉と私たち下士官候補者の十二名だけで、他は全国の戦車隊から集まった野戦の経験もある猛者ぞろいで、文字どうりの即戦力の精鋭部隊である。

 軍隊に機密が多いのは常識だったが、特にこの戦車中隊の存在は極秘だった。出入りは、陸軍病院と一緒の通用門一つで、衛門も看板もなく歩哨も置かない。私たち兵は面会はもとより、手紙を書くことすら許されなかった。復員して知ったのだが、郷里ではたび重なる空襲で死んだと思ったらしい。東京にいて音信がなければ、そう思われてもしかたがない。

 中隊の使命とか任務等、一切公表はされなかったが、長野県の松代に建設中の地下の大本営へ高貴な方々を護送するこということは、隊内では公然の秘密であった。

 松代の大本営の立案者が、反乱将校の一味で陸軍省の井田少佐(三十歳)であれば、同時期に、戦車隊の創設を計画したのは弱冠二十六歳の古賀少佐あたりだろう。若いがゆえに、手塩にかけた戦車隊を使ってみたい心理が働いたかもしれない。

 近衛師団の、終戦劇について映画や書物等に、宮城事件の名目で数多く取りあげられたが、偽の命令で行動を起こした歩兵連隊の分部分のみで、偽を見破って動かなかった騎兵連隊ことはない。

 私が見た書物でも、命令の十一項目の中、すべて歩兵の四ヶ連隊に関するものだけである。なぜか、最も忘れてならない騎兵連隊の部分は削除されている。

 戦後半世紀以上たった一昨年、某週刊誌に、当時、少尉で近衛騎兵の連隊旗手を務めていた下村 寛氏の談話が、「敗戦五十四年目の驚愕秘話」の見出しで掲載された。

 浴衣姿の師団長を、青年将校が三人がかりで、ピストルで撃ち軍刀で斬るという残虐きわまる行為。その後の偽の命令の発令等、生々しい真相を始めてしったのだが、戦車中隊の行く先は愛宕山の放送局ではなく、実は宮城だったのである。皇居内を戦車のキャタビラで蹂躙(じゅうりん)、録音盤のある宮内省の建物を戦車砲で破壊することが目的だったという。

 今日の日本があるのは、近衛騎兵連隊長の伊藤力大佐が偽の命令だと見破ったことと、戦車中隊が動かなかったことだといっても過言ではない。

 先日、戦後五十六年、隔年ごとに開催された、栄光ある近衛騎兵の全国大会を、会員の老齢化に伴い、二十六回目の今回を以って終結すると通知があった。たしかに互いに年をとった。いまわしい、この事件を風化させないためにも、今、残さなければ永久に戦史から消えてしまう。つたない文章だがあえて記録した。