兵士から衛士へ

終戦

 君が代の曲が流れ、つづいて、天皇陛下のご放送がはじまる。暑さを忘れて、一言一句聞き漏らすまいと、耳をかたむけるのだが、雑音でお言葉がよく聞き取れない。途中「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」の部分だけはハッキリわかった。放送が終ると同時に、ため息とも驚きともつかぬざわめきが起こるが、狐につままれたような感じで、私には、お言葉の内容が理解できない。

 やがて、中隊長が

「只今をもって、日本は無条件降伏をした。くれぐれも軽挙妄動はせぬよう。戦車に搭載した弾薬は、ただちに下ろせ」

と、指示して解散になった。未明の騒動から八、九時間は経っただろうか、あまりにもあっけない幕切れである。日本が降伏したからといって、悲しみのようなものは感じない。見渡すかぎり、緑のない焼け野原である。勝利を叫ぶ口とは裏腹に、兵の多くは、戦意を失っていたことは確かである。

 上装衣服を作業着に着替え、戦車に搭載した弾薬を集めに来た段列のトラックに渡すと、急に力がぬける。後は寝るだけだ。壕舎へ戻って寝台に横になったが、頭の中は故郷のこと、過去のこと、軍隊に入ってからのこと、朝からのことやこれから先のこと等、あらゆることが頭の中を錯綜する。三十数人もいるのに物音一つしない。皆、一様に寝台に仰向けなっている。語ろうとしない。放心状態というのだろうか。情報をつかもうと、焼け跡から集めたラジオの部品の組み立てに躍起だった班長も、人並みに寝ている。しばらく天井を見つめていたが、いつの間にか眠ってしまった。

 すっかり寝込んでしまった。目覚めたら四時を過ぎている。朝、上装衣服を着ての作業で、汗まみれになった体を、西日を浴びながら、露天風呂で流す。やがて夕食だ。昼食同様、銀シャリが山盛りだ。いつ終るかわからない戦争に備えて蓄えていたのであろう。今朝までの乏しい食事が嘘のようだ。夕闇のせまる屋外で涼をとる。あちこちの焼けトタンのバラックに灯りがともる。壕舎の裸電球も防空カバーがはずされ、開かれた入り口の扉や、天窓から煌々と明るい灯が洩れる。もう空襲はないだろうと思うと、「平和はいいなアー」と心の底から喜びが湧いてくる。故郷でも、解放感と平和の喜びに浸っていることだろう。無事を、一刻も早く知らせたい気持ちに駆られる。

 壕舎の中でも、一様に気分は明るい。とにかく、戦車中隊のあまりにも重い任務と、守らなければならない秘密。それに、耐えきれない中隊長の乱行の数々、乏しい生活に飽き飽きしていたので、降伏をなげく者はいない。今夜は点呼もない。

 中隊長の当番兵の間宮兵長から、出動命令の顛末を聞かされ興奮の収まらないところへ、週番下士官の前田伍長が入って来た。何も変わった様子がないのを感じたのか、声を落として

「他の小隊では、不穏な動きがあるらしい。中隊長の部屋に本橋曹長と間宮兵長が交替で不寝番に立つ。中隊長は絶対に軍刀を手から離さない」

そう言って帰った。先刻の間宮兵長も、舎内の気はいをうかがいに来たのかもしれない。

 そう言えば、元気のよい者は他の小隊で、指揮班にはそんな活きのよいのはいない。さすが、一兵卒からこの責任の重い近衛騎兵聯隊の戦車中隊長まで、叩き上げただけのことはある。部下を見る目は確かである。散々、いじめた内務係りの准尉を叩きだし、当番兵には警察官出身の忠実そのものの兵長を置く。しかも、指揮班は私のような小心者で固め、荒くれで、気合のかかった何かやりそうなのは離れた小隊に配る。実に巧妙である。今までの、中隊長の振るまいからすれば、そうした動きがあってもおかしくはない。中隊長室や他の小隊の不穏なことなど吾関せずと、舎内は平和な眠りについた。

 今日も、相変わらずの旱天だ。中隊本部も変わったことはなかったようだ。朝食まで何もすることはない。横になったまま雑談に花が咲いている。気持ちは一様に落ち着いたようだ。食事は今朝も銀シャリが山盛りだ。食事揚げに来た者から伝わった話では、他の小隊では、昨夜逃亡者が出たそうだ。少年戦車兵学校出身の二十歳前後の下士官たちが、装甲兵車へ燃料の入ったドラム缶を積んで、全員でずらかったそうだ。少年戦車兵学校は、一騎当千の戦闘要員を養成が目的のようで、向こうみずでヤクザ風の命しらずの連中だ。近衛兵とは肌合いが違う。私たちは常に避けていた。直ちに車輌を使っての逃亡を防ぐために、全車両が元の車廠に移され、鍵は中隊本部で保管することになった。(装甲兵車は、三重県の鈴鹿山中に乗り捨て、大阪の花柳街で遊興中、憲兵隊に全員が逮捕されたと、数日後、聯隊本部へ連絡があったそうだ。)

 食後しばらく、雑談をしているところへ、金筋一本の兵長の襟章を付けた平井が現れた。早くも、九州方面の出身者に復員命令が出たそうだ。彼は、私たちと一緒の下士官候補者で、熊本県天草の出身である。中隊長の特別のはからいで、一階級上がったとのことだ。再び会うこともなかろうと別れを惜しむ。長い道中の無事を祈りながら見送る。

 その他の小隊にも逃亡者がいて、時間の経過とともに人数や名前もはっきりしてくる。また、九州方面の出身者のように、現実に復員者が出ると、いろいろな憶測や、噂がささやかれる。連合軍が、九州方面に上陸したとか、関東地方には、今日にも上陸をして武装解除をし、兵隊はどこかに移される。それどこではない、房総方面には、本土防衛の目的で、関東軍より五月移動して来た「鋼」という重戦車を主力とする精鋭があって、一戦を交えるため、今日明日にも決起する。そんな勇ましい話もあれば、昨日のうちに解散した部隊がたくさんあって、どこの駅も、荷物を背負った復員者で溢れている。流言蜚語の氾濫で話題はつきない。私のような独り者は別として、年配者や妻子のある人たちにとって不安は増すばかりであろう。

 午後になると、内務係りが全員を集め

「典範令や軍関係の書類と、不要な私物はすべて焼け。それから、隊からの復員証明書を持たない者は、憲兵隊や警察に逮捕され、また、ここへ帰されることになっている。聯隊長からも、各府県知事宛てに逃亡者名を通知して、永久に職に就かせないようにする」

と、申しわたした。陽の落ちるころ、

浴場の焚き口で私物や書物を燃やすと、これが、故郷の盆の送り火と重なって、煙に手を合わせる。幾分、神妙な気分になっていると、突然、日の丸をつけた海軍機が一機、低空で飛来してビラをまいた。徹底抗戦を訴える内容だ。これを読んで心を躍らせる者はおるまい。ご苦労なことだ。元来、航空隊の糧秣は特別だと聞いている。国民の乏しい生活を知らないのだろう。空襲の際には逃げ隠れしていて、今更、何をという思いだ。

 昨夜の解放感も、一日たった今夜は雰囲気がちょっと違う。古兵たちに何となく落ちつきがない。ヒソヒソ話が気になる。消灯時間が過ぎたのに寝る人がいない。不審な気持ちをいだきながら、何時の間にか眠ってしまった。翌朝、目が覚めて驚いた。入り口に近い古兵たちの寝台が蛻の殻だ。整頓棚の荷物も寝具の毛布もない。物資の少ない今だからと、一品残らず持ち去ったのだろう。班長以下、肩で風をきっていた下士官たちが、襟章のついた軍装で大きな荷物を背負った姿は、想像するだけでも滑稽だ。人間は、裸になれば誰も同じだ。昨日、内務係りから注意があったにしても、この、疎開地から出て行くのにそれほどコソコソせずに、せめて一言、別れの挨拶ぐらいはしてもよさそうにと残念である。あるいは、同行をせがまれても困るので、こっそり、逃げたのかもしれない。他の小隊も同様、多くの逃亡者が出たようだ。今夜から、中隊長は枕を高くして眠れるだろう。おかげで、銀シャリの朝食がたくさん余った。

 食事をしているところへ、連隊本部の炊事へ各小隊より二名づつ、食事ひきとりの使役をだすようにと連絡があった。運動に歩くのも良いと、澤本と二人で使役を引き受ける。都合十名、本部の炊事へ行くと食管に飯と汁が入っている。これが朝食だと言う。もう済ませたからと言うと、文句を言わずに持って行けと有無をいわせない。そして、昼食も取りに来いという。どうやら、現役兵だけの乗馬隊でも、ずらかった者がいて飯が余っているようだ。長期戦に備えて、節約をはかったところ、思いもかけない降伏という事態で、それの処分に躍起なっているのだろう。小さくなってしまった胃袋では、いかに若者でも一日六食は、到底消化しきれない。そんな中、砂糖をたっぷり効かせたゼンザイが出たが、甘すぎてうんざりする。その後も姿を消す者はいたが、故意に引き止めるような策は講じられない。

降伏から五日。五月に焼け出されて疎開するまでの間、仮住居だった被服倉庫へ移る。中隊全員が集まった。兵員は三分の一に減っている。下士官候補者は、五月に東部軍へ転属をした鹿子島と、十六日に復員した平井の九州勢二人以外の十二名全員が残っている。中隊が一つになれば結構いろいろな噂が入る。ご丁寧に、外部からわざわざ決起を煽動しに来る者もいるが、大部分が帰心矢の如しで、耳をかす者はいない。逃亡はしたものの、地方は、食糧難に加え職もないと、チャッカリ戻ってくる者もいる。さまざまな人間模様である。

九月六日。明治の建軍以来、禁闕(皇居)守護と鳳輩供奉を任とし、また、貴族聯隊とも帝国陸軍の華ともうたわれた、近衛騎兵聯隊も、ついに幕を閉じることになった。全員を営庭に集め、聯隊長が声涙ともにくだる訓示をした。ひきつづいて、四月二十七日の空襲で、兵舎を焼失してから同居している軍楽隊百名ほどが、別れの演奏するので、下士官以下は、芝の営庭へ腰を下ろして聞く。「抜刀隊」の曲から、次々に軍歌を演奏するが、聞いても、今は懐かしい過去のものになってしまって、心を打つものがない。最後に、テノール歌手、永田絃次郎軍曹が紹介された、「荒城の月」「故郷」「赤とんぼ」等の数々。広い営庭に透きとおる声が響く。四百人はいるであろうが、水をうったような静まりである。しばし、幼いころを甦らせて郷愁に浸たる。歌い終わると、期せず、万雷の拍手が起こった。

昨年の七月二十七日、全国より集まった、即戦力の精鋭により編成された戦車中隊も、丸ゴ車とともに、陽の目を見ることもなく、また、十八輌の戦車も、その本領を発揮することもなく消滅した。この存在が、国民の目に入らずに戦争が終結したことは、私たちだけではなく、国家、ひいては国民にとっても、幸せなことだったと思う。

解散と同時に、私たち下士官候補者が、一階級昇進して兵長になることは、中隊長が約束していた。しかし、乗馬隊の下士官候補者が、勤務のため教育がされておらず、戦車の下士官候補者だけ、昇進させるわけにはいかぬと取り止めになった。金筋が欲しかったわけではないが、階級に応じた一年分の退職金が支給されるので、それに響いたのは痛い。(因みに、月給は上等兵が十円、兵長は十六円)また、労をねぎらう意味で天皇陛下より、落雁の菓子が将校には十二ヶ入り一箱。下士官には六ヶ入り一箱、兵には二ヶ下賜された。よもや、天皇陛下、御自らこの数を御決めになされたわけではあるまいが、兵は、たったの二ヶとは少なすぎる。下士官と兵は、三度の食事も起居も一緒なのだ。軍隊が解散をした今も、階級に隔たりがある。

禁衛府

  

 解散式が終って、今日、七日から復員が始まる。九州を除く、全国、各地へと復員をしていった。中隊で残ったのは、中隊長外将校は二名、曹長が二名、現役志願をした下士官が五名、兵は、私たち下士官候補者の二年兵が十二名、初年兵が十八名である。ここへ残るのに、私たちは相談をしたわけでもないし、禁衛府に憧れがあるわけでもない。しいて言えば、現役志願をしたという自負心があったことは確かだ。だが、乗馬隊には、現役志願をしなかった二年兵が多数残っている。平時の軍隊では、適齢に、甲種合格で入隊した者の任期は二年で(正確には、一月十日入隊、翌年の十一月三十日までの二十三ヶ月、)満期、除隊になる。私たちは、昨年の四月十日の入隊で十七ヶ月、まだ満期ではない。そのことが誰の頭にもこびりついているのだろう(逃亡した者は別にして)それとは別に、戦場で命を落とした多くの人たちと、外地で非常な苦難をしている大勢の人たちが、降伏をしたとはいえ、いつ復員できるかわからない。その人たちのことを思えば、いかに命令とはいえ、一度も戦場の土を踏むこともなく、ハイ降伏しました。ハイ復員しましたでは申しわけない。せめて、満期の二年のご奉公はしなければという思いがある。この心理は、誰も口にこそしないが強く働いていると思う。今日、九月十日付けで「半任官に奏し、三十六円を給す。宮内大臣」の辞令を手渡される。今日から特別儀仗隊衛士である。兵から衛士に替わっただけで、月給が、十円から一挙に三十六円とは驚きである。

 ここ連日、MPの腕章をつけた進駐軍がジープ二、三輌で来る。武装解除の実態と、新しく発足する禁衛府の装備の調査が目的のようである。数頭いた馬は、復員をした人たちが払い下げを受けて連れて行った。戦車中隊の車輌は、禁衛府に温存の予定だったらしいが、大型トラックを除く、丸ゴ車六輌、戦車十八輌、装甲兵車六輌は、赤羽の工兵隊へ運んで解体することになった。二人一組で、一輌づつ運んだ。どうせ解体されるのだからと、何かに使えそうな革製品等は、はがして持ち帰る。私も、戦車砲の皮製のカバーを失敬した。丸ゴ車は装甲兵車を改造したものだが、さすが、高貴な方々を載せる車輌だけあって、床には赤いじゅうたんが敷かれ、天井にはシャンデリヤがつき、テーブルと寝台がセットされている。

 旧軍隊の兵器等は一切消えた。残ったのは、人と兵舎と衣服だけである。

帯剣も車輌も消えて、手入れや整備の作業がなくなれば、まったくの手持ち無沙汰である。手紙を出すのを禁じられていたので、葉書も切手もない。東京の真ん中に住んでいるのに新聞も読めない。街へ出ても店がないので買物ものも出来ない。四六時中訪れるMPの手前、派手な運動や銃剣道も出来ない。朝、夜の点呼もなければ、何の指示もない。三度三度、食べては、たわいもない雑談と寝るのが毎日の生活である。

 平凡な生活にあきあきしたのだろう。旧乗馬隊の人たちが、営庭で野球を始めた。将校、下士官、兵が、入り交じって楽しんでいる。持ち出した椅子に掛けて、声援している将兵もいれば、兵舎の窓から身を乗り出して見ている人もいる。一方、舎内のあちこちでは負けじとばかり、ダンチョネ節や農兵節、各地の民謡の狂ったような大合唱である。地方の民謡を歌うことによって、故郷への思いを馳せているのだろう。鬱憤を晴らしているかのようにも聞こえるが、不思議に、軍歌は聞こえてこない。終戦からやがて一ヶ月半、軍国主義から見事に平和主義に転換したかのような思いがする。自分を含めて、人間は、適応性に富んだ動物だとつくづく思う。

 日誌を書く筆記具がないし新聞もない。ついつい、日にち、も分からなくなる。本橋曹長(禁衛府に替わっても編成もないし、勿論、呼称等も決められていないので、旧軍のままを使っている)に呼ばれ、関と二人で事務室へ行くと、

「お前たち二人は、側車(サイドカー)の操縦要員で、準備が出来次第、斎藤曹長から教育を受けることになる。ゆくゆくは、行幸、啓の際に、側車へ衛視監を乗せて操縦する。任務は極めて重い。身にあまる光栄と心得て、精励するよう」

思ってもみない言葉である。乗馬隊の時、教官から将来天皇旗を持つのはお前だと言われ、戦車隊では丸ゴ車の操縦要員で、今度また、側近護衛とは、身に余る光栄どころか、寿命がちぢむ思いである。

あれから、幾日経っても何の話もない。多分、進駐軍との折衝で装備や編成で難航しているのだろう。赤羽の工兵隊へ戦車をはこんだことと、二度ばかり、主計の本田中尉に引率され、トラックで師団司令部へ糧秣の受領に行っただけである。毎日が、休日の生活だが、日曜日は、晴れて外出が許される。決まって、行く先は新宿である。お目当ては寄席だ。落語や流行歌。人形を抱いた腹話術は初めてだ。こうした人たちは、空襲中どうしていたのだろうかと、よけいな詮索をする。闇市や寄席の賑やかさに、復興の勢いのすさまじさを感じる。森という店で、隊内では味わえないパンを買って帰る。

十月も半ばを過ぎて、二泊三日の外泊許可が出た。宇都宮にいた当時のような嬉しさはない。戦に破れて、兵でなくなっての帰郷はなぜか面映ゆい。列車が間もなく高崎というあたりで、隣の座席にいる背広服の紳士が鞄の中から新聞紙の包みを出して広げた。中には、小さく切った甘藷が二ヶある。多分これが昼食だろう。食糧の乏しさを改めて実感する。

禁衛府特別儀仗隊の衛士で、月給三十六円の辞令が土産だ。さぞ、両親も驚くだろうと思っていたが、何と、地方(軍隊では、軍隊以外を地方と言う)は、ひどいインフレで、馬鈴薯が、一貫目(3、75キロ)十五円もするそうだ。三十六円では二貫目の馬鈴薯の価値しかない。十五、六年前の不況時に、百円、二百円の借金で利息が払えず、夜逃げを企てたほど貧しかった家が、馬鈴薯を十貫売って借金の清算ができたとか。また、半強制的に買わされた戦時国債も、今は、紙屑同然だそうだ。目下は、食糧増産が至上命令で、たんぼのない郷里では、雑穀や甘藷の取入れで大忙しだ。私も中一日、農作業を手伝う。そして、筆記具や帳面や本を持って帰営した。

帰って十日目、中隊長に呼ばれて隊長室へ行くと、

「昨日、聯隊長殿宛てに、お前の所の村長から、年老いた両親と小学生の弟妹五人なので、人手不足で困っている。是非、帰して欲しいと嘆願書が届いた。前途に希望もあろうが、禁衛府も先行きどうなるか、わしにもわからん。わしもここを辞めて、故郷へ帰って塩造りをしようと思う。残念だろうが諦めて、家へ帰って親孝行をしてやれ」

これまで言われれば「はい」と、言わざるを得ない。それからしばらく話をして、明日帰ることにする。側車要員の内示は受けたけれど、とうとう、教育は実現しなかった。

中隊長は、香川県の塩問屋の婿なので、単身赴任だと言うことを始めて聞かされる。気性の荒い人で、殴る、蹴るなど日常茶飯事だった。だが、不思議に私には優しかった。転属をした当日、前夜、馬に踏まれて痛めた足の指の治療に、衛生兵を呼んで医務室へ連れて行かせてくれた。七月の末、頬が腫れているのを見て、陸軍病院の歯科へ行かせ、知歯難生症(親知らずの歯)の手当てをさせてくれた。また、九月上旬、虫歯治療をするのに、町医者に紹介状を書いてくれた。些細なことだが、これほど気を使ってくれた人はいない。私は、しっぽをふって、ゴマをすった覚えはないのだが。c

 軍隊に入って一年六ヶ月、宇都宮の騎兵聯隊。近衛騎兵聯隊。そして同戦車中隊。どこも、人々に恵まれ、楽しい軍隊生活だった。勿論、演習や教練では軍隊特有の、兵は叩くほど強くなると、厳しく鍛えられたことは事実である。だが、いずれの師団でも師団長命令で、「私的制裁」は堅く禁じられていた。表立った制裁は知らない。また、二夏とも兵舎を離れた生活だったので、兵舎で、就寝中襲うと言う南京虫も知らない。男所帯ながら、蚤、しらみ、も知らない。軍隊は運隊というが、ほんとうに運が良かったと思う。

 昭和二十年十月三十一日、戸山町の兵営を後にした。

付記 禁衛府は、連合国から、軍国主義一掃の政策にもとづいて廃止をせまられ、翌年の、三月二十六日に解散となったことを、翌日の新聞で知った。