月が、二つの影をつくる。
一つは、人間の男性の影。ざんばら髪にきりッとした顔つき。蒼を基調としたはかまを 着た彼は,刀を青眼の位置
に構えて動かない。
もう一つは,直立した豚の影。目は凶凶しく赤く光り、皮膚は黒く光っている。両手に一本ずつ青龍刀を携えている。
男性の2倍はありそうな背丈と質感が、威圧感を増している。荒い鼻息が、それに拍車をかけている。
男性は,辺りに立ち込めていた血の匂いに耐えられなくなり,溜息を一つついた。
精神を落ちつけたのだ。
溜息を見た豚が、血で汚れた口をいやらしく開いた。
『どうした…恐怖で身でもすくんだか…』
「かもな」
豚の意に反して、男性は笑いすら浮かべ言った。
『その余裕が,いつまで続くのかな…?』
「無論,貴様が死ぬまでだ!」
言い終わると同時に、男性が走る。豚が男性の速さに驚いている間に、男性の斬激が豚 の腹に深深と放たれた。
緑色の体液が,飛沫となって男性に降り注ぐ。豚は顔に苦痛の色 を浮かべ、口から体液とうめき声を出す。豚は、な
んとか苦痛から逃れようと,男性に両手の青龍刀を降りまわす。が、それは男性には掠りもしない。逆に男性はそれを
払い、隙だらけになった右肩に第二激を放った。豚の右腕は綺麗な弧を描き、どさっ,と音を立てて落ちた。豚の顔は
心なしか青褪めてゆき,脂汗が滲み出した。
「笑わせるぜ。その程度でこの世に再臨しようとはな…」
『な……まさか,貴様…退魔師か!』
「御名答」
男性の言葉は豚の言葉を遮って、放たれた男性の斬激は豚の体を真っ二つにした。
今年,九州にポルトガル人が漂来した。
日本人は、彼が運んできた『宗教』にこぞっと寄り添った。それは、今までの苦しい生活から逃れる為、だったのかも
しれない。
そんな世の中に,それに回りが寄り添っている時に、のうのうと暮らす兄妹がいた。
江戸城下町の片隅で,のうのうと暮らす兄妹が。
「兄様(にいさま)!起きてください!もう昼ですよ!」
「………」
「兄様!」
「ん……あと一刻半…」
「に・い・さ・まぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」
居間で,横になって心地よさそうに寝ていた男性に、女性は右足で男性の米神に踵落としをかました。
「うるごぅああああああ!」
米神を抑えて,絶叫と共に転がりまわる男性。女性は両手を腰にあてて,勝ち誇った顔すらしている。赤を基調とし
たあ和服、を纏い、品性な顔立をしている。対して男性は、涙目になっている。蒼を基調としたはかま、ざんばら髪に、
その目が非常に似合わない。
女性は、男性の醜態を見て溜息を一つつくと、
「兄様、おはようございます。早速ですが、表で豆腐を一丁買って来てくださいな」
「ッ…御前なぁ…」
そこまで言うと,男性は女性の怒気すら帯びた目に気付き、覚悟を決めた。
「承知…」
後頭部をぼりぼりと掻きながら、男性は表へ出ていった。
男性の名前は燈牙(とうが)、妹は明華(めいか)といった。
「よ、こんちは」
「あぁ,久しぶりだねぇ」
燈牙の呼びかけに反応したのは、長屋の大家だった。
「今日はどうした?」
「明華の頼みでな。豆腐を買いに…」
「成る程なぁ。あの器量よしの妹さんの願いなら,聞かねえ訳にはいかねえだろうなぁ」
朗らかな顔で笑う大家。対照的に,燈牙は大きな溜息をついた。そして小声で呟いた。
「行かねえと殺されるんだよ…」
「と、そうだ」
大家が話を切り替えた。
「住職さんが探しとったぞ」
「穏念(おんねん)の爺さんが?」
燈牙は、片眉をピン,とはねあげた。
「あぁ。長屋で寝てるよって伝えたら、起きたら来る様にっていっとったぞ」
「へぇ…」
燈牙は,顎を撫でた。