「兄様が急に“蕎麦が食べたい”って言ったんです。これで最後になるかもしれないと思ったんで、私、兄様を担いで蕎麦屋まで行ったんです。そしたら兄様見る見る元気になって…」
「だからって、目に見えて腹が膨れるほど食べなくても…」
石段の下でいびきをかいている燈牙を見下ろしながら、二人は噛合わない会話を交わした。
「どうします?彼…」
「どうしますって、置いて行く訳にはいきませんし、今見てきたら家も壊れてたし――そうそう、なんかあったんですか?」
「ああ、――――」
隠念は言葉に詰まった。
その時、
「隠念さん…」
か弱い、今にも消えてしまいそうな声がした。
円だ。
「ど、どうしたんですか円さんまで!」
隠念は声を荒立てた。予想外のことが続きすぎる。
しかし、予想外、ということだけで隠念が驚いた訳では勿論ない。以前に一度会ったときとは比べ物にならないほど、いや、同一人物とは思えないほど、その表情が変わっていた。
目は虚ろで、口は半開き。明るい、と言っても解る人間は少ないだろう。
円はよろよろ、と隠念のところまで来ると、そのまま隠念によりかかり、気を失った。
「ったく…なにがあったというんですか…」
隠念は円を、そっと明華に渡した。明華は見知らぬ人の登場に少し戸惑ってはいたが、相手の状況を見てそれを振り払った。
「さぁ、出てきなさい。気付かれていない、とでも思っているのですか?」
隠念は突然言った。明華は驚いた。何故なら、あの穏やかな隠念とは似ても似つかない声色だったからだ。
そして、更に驚くことに、その声に呼応する者がいた。
「成るほど。愚僧ではない、という噂は確かな様だ」
草影から、睦月が静かに姿を表した。
裏集団、『月下』。
決して歴史の表に出ることはなく、暗躍、という形で仕事(おもに殺人、スパイ行為など)をこなしている。
無論、本名で呼び合うのは日ごろのプライベートに関るので、暦を表す言葉を偽名に使っている(というか、御互い本名は知らない)。
如月は、その集団のbQに在籍している。それなりの発言力を持っているが、今は席を外している。
しかし、集団行動において最も大切なのは『チームワーク』、言わば『団結力』であり、自分勝手な行動をするものはその集団のネックに成りかねない。
『月下』の頭―睦月はそう思い続けて来た。
そして今回、思いも寄らぬ仕事が舞い降りて来た。如月の知人(知人であることは、長月の調査で既に割れていた)の暗殺の依頼。異国のものからの依頼、ということもあって敬遠し
ようとしていた仕事だが、臨機応変な睦月に、この仕事は正に天の恵、と言えた。
「睦月」
「長月か」
港の錆びれた倉庫に、『月下』は集まっていた。その中には如月の姿もあった。しかし、腐っていた。
睦月は大柄な人間で、有に2メートルを越える背丈は圧巻の一言に尽きる。筋骨隆々という言葉が相応しく、顔には髭が生えている。睦月の前にいる長月はとても小さく見える。
「如月を連れて来た」
「御苦労」
睦月は静かに返答した。その言葉を聞いて、周りにいた『月下』の面々が次々に声を上げる。
『如月?!』
弥生、卯月、皐月は声を揃えた。それも其の筈、彼女らは三つ子である。やや痩せ気味の美麗な顔、紅紫に統一された控えめな忍び装束が色気を益々引き立て、場違いにすら感じ
させる。
「きーちゃん!」
一際高い声を上げたのは師走だ。齢十歳という幼さでこの集団に所属している。孤児なのだ。長月と同じほどの背丈で童顔、灰色に近い忍び装束は未だ揺ったりとしている。
「おぉ、来たか!」
野太い声は神無月。顎鬚を生やし、爽やかな顔をしている。如月と同じほどの年齢で、背丈だ。装束は漆黒である。
長身でひょろっとした水無月、猫背で少し錯乱気味の文月、小太りの葉月は声はかけなかったが、内心は喜んでいた。
何しろ、半年ぶりに仲間が全員集ったのである。
「心配したぜ!長月が何処探してもいないってんでな!」
神無月が声を上げ、如月に歩み寄り、如月の肩に手を置いた。しかし如月は、それを凄い勢いで払いのけた。それも凄い見幕で。
「調子にのるな。俺は帰ってきた訳じゃない」
「じゃあ何しにきたんだ?」
「なにをしにきたわけじゃない。“嘗て”の同胞に拉致されたのさ」
辺りの空気が、途端に鋭くなった。如月は辺りに殺気を振りまいている。本気だ。
「そんな言い方はねぇだろ?兄弟」
葉月が声をかける。何処かぎこちないのは、怯えているせいもあるのだろう。
「兄弟の契りは遠に棄てさせてもらった」
如月は冷たく言い捨てた。殴りかかろうとした神無月を長月が手で征した。
「さぁ、話があるんだろう?お頭さんよ」
「ああ、ある」
倉庫にあった木箱に腰を下ろしていた睦月は、言いながら立ちあがり、如月に歩み寄った。
「今度の仕事のことは知っているな」
「ああ知らされた」
「協力してもらう」
「依頼主を聞こう」
「言えぬ」
「何故だ」
会話はぴたりと止まる。空気の震えが伝わる。
耐えかねた皐月が横槍を入れた。
「まぁいいじゃない。今日は久ぶりにこうして皆揃ったんだし、喧嘩は止めにしない?ね、睦月、如月」
「黙っていろ」
睦月が吼える。皐月は視線を落とし、唇を噛む。
辺りの空気は鋭さを増す。
「聞こえなかった訳じゃないだろ?依頼主を教えてもらおう」
「言えぬ」
その短い言葉を聞いた途端、如月は睦月の頬を思いっきり殴った。
睦月は“動かなかった“。如月が軽く殴った訳ではなく、それこそ全体重をかけて殴った。それでも睦月は動かなかった。
恐ろしいまでの防御力。これが、彼の『能力』である。
「俺は!この集団にいたのが、いた事実が嫌なんだ!」
半ば狂ったかのように、如月は言った。睦月の頬にあった拳は、睦月の胸倉を掴んで離さない。
「しかし、それは事実だ。御前がいくら『月下』の『方針』を忌み嫌っても、それは過ぎ去った過去でもある」
如月は睦月をきっと睨みつけた。しかし、睦月は動じることなく言葉を並べる。
「その『方針』に、御前は何度も助けられた筈だ」
「違う!」
如月は叫び、後ろに飛んだ。
「こんな『能力』になんか助けられた覚えはない!」
「御前の『能力』は、どんな所にでも炎を出す事ができる、というものだったな。御前の十八番の爆弾も、その『能力』が無ければなんの役にも立つまい?現に御前は、その『能力』を
使って『骸』を倒していたじゃないか。『骸』の魂に憑依された『蛙』を真っ二つにするほどの破壊力は、御前お手製の爆弾のせいもあるだろうが、それだけでないことは解っている筈
だ」
睦月は淡々と言った。
「だから脱退する際に言っただろう!『骸の心臓を“食って”まで強くなりたくはなかった』と!」
辺りの空気は凍りついた。
その事実は、誰もが知ってはいた。しかし、それを受け入れた訳ではない。如月の様に、過剰になって拒否をしなかっただけの話であって、先の如月の発言は、ある意味『月下』の
心の叫び、とも言えるのだ。
如月には、この事実が酷くこたえた。如月には歳の離れた妹がいたが、それが骸に食われた。骸の撲滅の為に『月下』に加入したが、そこで最初に行われたのは『骸』を食う、という
儀式だった。願っていたこととは、掛け離れすぎていた。
骸を始めに食ったのは、他でもない睦月である。空腹に耐えかねた睦月は、その場にあった(それしかなかった)『骸』を食らった。以上に装甲が硬い『亀』の心臓であった。翌日、睦
月の身体は異常なまでに張り、鉄壁と呼ぶに相応しい体となったのである。
「俺は…俺は茜に顔向けできない…」
如月は涙ながらに、訴える様に言った。茜、というのは妹の名だ。
「俺は妹を食った奴と同じなんだ!御前も、御前も、御前もだ!」
最早如月の悲しみは止まらない。今まで押さえていたものが爆発した。
如月に『御前』といわれながら指を指された睦月、長月は顔を顰めたが、皐月は堰を切ったかのように泣き出した。それはそうである。せっかく会えたと思っていた思いを寄せる人間
に『御前』と錯乱気味に呼ばれ、快くいられる人間が何処にいるだろうか。
「俺は御前らとはいっしょにいる気にはなれない!俺を人間でなくした御前らなんかとはな!」
そう言い残して、如月は夜に溶けていった。
後には、やるせない空気が漂っていた。
隠念を襲撃する、ほんの数時間前であった。
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